自分勝手な映画批評
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2011 日本 141分
監督/山下敦弘
出演/妻夫木聡 松山ケンイチ 忽那汐里 石橋杏奈
閉鎖されている東大安田講堂に片桐(松山ケンイチ)は忍び込んだ。片桐は荒廃した講堂内で見つけた壁に書かれた文章「連帯を求めて孤立を恐れず 力及ばずして倒れることを辞さないが 力を尽くさずして挫けることを拒否する」に魅せられていた。

ジャーナリストの前に人間だろ、お前は

原作は評論家・川本三郎の実体験が綴られた著作。1971年に実際に発生した朝霞自衛官殺害事件をクライマックスとした事の顛末を通じて当時の若者の姿を描いた作品。作品タイトルはボブ・ディランの楽曲「マイ・バック・ページズ」から。

自己顕示が強い人がいる。また、そうでなくても何か爪痕を残さないと自分自身で納得出来ない人がいる。それを強靱なバイタリティーの表れだと好意的に受け止める事も出来るだろう。だが一方で、わざわざ波風を立たせて非常に迷惑だと感じる場合もある。

タチが悪いのは、自分の利己的な思想や行動を世の為、人の為などと勝手に都合良く変換している人がいる事だ。それが無自覚なら尚更厄介。もっとも、実際には一個人と世間の相互利益が合致して大きな成果が得られている事は大いにある筈だ。だが、明らかに的外れで独りよがりと感じる事もある。

一概に利己主義が悪いとは言わない。但し、利己主義を掲げて自己実現に全う出来る立場(地位ではない)があると思う。あくまでも利己主義な自己実現に固執するのならば、そういう立場で思う存分実力を発揮して欲しい。しかし、そういう立場でないのならば、するべき事を深く思慮して本分に誠実に精進するべき。綺麗事を並べて自己実現の為に、あるいは自らの存在意義の確認の為に無闇に他人を巻き込むのは勘弁してもらいたい。





1969年、東大を卒業して東都新聞社に入社した沢田。沢田はずっとジャーナリストになりたかった。海の向こうではベトナム戦争があり、目の前では学生運動がある世の中で、ただ見ているだけの自分が嫌だったのだ。東都新聞社には全共闘運動をフォローする雑誌「東都ジャーナル」があり、若い読者から熱い支持を受けていた。当然、沢田は「東都ジャーナル」への配属を希望したのだが、配属されたのは「週刊東都」という雑誌。やりがいのある仕事が出来ない鬱憤が沢田には溜まっていた。ある日、沢田は、ちょっと過激な先輩記者の中平から東大全共闘議長で指名手配中の唐谷義朗を潜伏しているアジトから全共闘の結成大会が行なわれる日比谷まで車で送るように指示される。それは明らかに違法行為であり、失敗したら沢田は逃走援助で逮捕されてしまう。しかし沢田は、その実行、及び、そこで目の当たりにした光景に充実感を覚えるのだった。一方、1970年、白熱する学生運動に感化された片桐は、自らも決起すべく学生たちを集め、大学の教室で集会を開いていた。





この物語をもって、あの時代のすべてが描かれているとするのは早とちりであるだろう。時代を描いていながらも、実のところ本作は凄く個人的な物語ではないかと思う。若さ故の情熱と若さ故の過ち。そう定義するのは、取り返しのつかない、しでかした事の大きさを考えればあまりにも無責任だが、それでも物語の本質はそこにあるのだと思う。

ただ、時代と密接な関係にあるのは間違いない。個人的な物語が激動の時代と同調する事でダイナミックに映し出されている。そして、あの時代の紛れもないひとつの現実が記録されている事だろう。時代の大波に魅了されて奮い立つも、飲み込まれて溺れてしまった者たちが招いた悲劇が本作には描かれている。

そのような物語の根幹もさる事ながら、本作の秀でた点は時代描写の上手さ、物語の描き方の上手さであると思う。

当時をそのままに再現出来てはいないのだろうが、当時を現代の感覚で咀嚼して再構築し、雰囲気を味わわせる事には成功していると言えるだろう。これは、きめ細やかな演出の賜物だと思う。他にも何気ないが効果的な演出が至る所で施されており、作り手のセンスが如実に感じられる作品である。

その演出の一環になるのだが、出演している俳優の演技が総じて素晴らしいのも本作の特長である。

まずポイントとなるのは松山ケンイチだ。「ノルウェイの森」でも感じたのだが、松山がいるだけで昭和40年代の空気が一気に立ち篭める。これは本作を成立させる上で、なくてはならない要素。演技も大変素晴らしく、薄っぺらなペテン師を具現化している。

主人公・沢田を演じる妻夫木聡も良い。妻夫木の柔和な持ち味は本作でも健在。一番の見どころはラストシーンであるだろう。物語の結びに相応しい、万感が満ちる入魂の演技を披露している。

若者が主導する物語なので自然と若いキャストが重要になるのだが、皆が変な贔屓目は全く持って不要な見事な仕事をしているのには感嘆する。彼らは、なりふり構わず、時には体当たりで役柄に没頭し、立派に物語を支えている。その中でも物語の大きなアクセントととなる異彩を放つ忽那汐里が印象に残る。

巧者が揃った出演陣の中で、特に巧者振りを見せつけているのが沢田の先輩記者・中平を演じる古舘寛治だ。古舘がいるといないとでは作品の質感、ひいては価値が大きく違ってくるのではないかと思う程、作品に大きな影響を及ぼしているように思う。

京大全共闘のカリスマ前園を剛健、且つ無気味な存在感たっぷりに見事に演じるのは山内圭哉。驚いたのは山内が「瀬戸内少年野球団」の少し内気なリーダー竜太少年と同一人物である事だ。時を経て立派な個性派俳優へと成長した姿は嬉しい限りである。

あの時代を違う道筋で描いた「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」と本作を見比べるのも有意義だと思う。


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