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僕は今、何処にいるのだろう? 原作は村上春樹の小説。男子大学生を中心にした複雑な恋愛模様を描いた作品。 原作は歴史的な大ベストセラー。ハードカバーの上下刊からなる原作本は、それぞれが赤・緑で全面を塗られた装丁が施されており、見た目にもインパクトが強く、大変オシャレであった。発売した1987年辺りはバブル期であり、トレンディーなんて言葉がもてはやされた時代。原作本は、そのトレンディーの神器のひとつとして数えられるようなアイテムだったように思う。但し、私は残念ながら未読である。 大学生のワタナベには苦しい過去があった。それは高校時代の友人キズキを自殺で失った事だ。その苦しみから逃げる為に、ワタナベは故郷を離れて東京の大学に進学していた。ある日ワタナベは、キズキの彼女であった直子と偶然再会する。それ以来、頻繁に会うようになった二人。但し、同じ苦しみを共有しているのにもかかわらず過去の事、キズキの事は互いに決して口にはしなかった。直子の誕生日に結ばれる二人。そこでワタナベは不用意にキズキの事を口に出してしまう。泣き出し狼狽する直子。その日から直子の行方が分からなくなった。 多くのファン、更にはマニアまでをも抱える人気作家の作品、ましてや超が付く程のベストセラーの映画化は難しい面が多いだろう。実際、本作の感想やレビューを見ると、原作のファンの中には本作を好意的に思っていない人もいるようである。原作を未読な私には、もちろん原作と本作との比較は出来ない。ただ、原作を知らない私にとっては存分に堪能出来る作品であった。 原作の影響下にない、真っ新な状態の私が感じた本作の印象は、美しい映像と演出で描かれた作品、但し、ストーリーは重く、いささか抽象的だという事だ。 まず本作で特筆すべきは映像の美しさだ。透明感のある綺麗な映像は絶品。更にはそこに無駄を削ぎ落とした質素な演出とシンプルな弦楽器の音色が加わり、視聴覚的に統一感のある完璧な美が実現されている。 ただ、視聴覚に訴えるこの雰囲気は、率直に言って舞台である昭和40年代を再現しているとは言えない。本作にはどこか東南アジアのような雰囲気が漂っている。それは安易な結び付けになるのかも知れないが、監督であるトラン・アン・ユンがベトナム出身だという事が影響しているように感じられる。 日本の物語でありながら、どことなく異国の香りを感じさせる本作。だが、それは物語に良い効果を与えているように思う。本作は非常にプライベートな物語である。当時の日本の雰囲気を再現せずに独自の美意識で包み込む事で、学生運動等の世間の喧噪からは離れた、あるいは左右されないプライベートな物語である事を暗に強調させている。 台詞が完全な口語ではなく、幾分か文語調である事も本作の特徴として挙げられる。その原因は原作の小説に則っているからなのかも知れないし、舞台となる時代が少なからず影響しているのかも知れない。いずれにせよ、文語調の言い回しは本作には欠かせない要素であると思う。 驚いたのは監督のトランが脚本も兼ねている事、つまり文語的な表現を操っていたのは外国人だという事である。もしかすると日本人のサポートがあっての脚本なのかも知れない。だが、それでも文語体の台詞がちりばめられた脚本が外国人の名で仕上げられたのは興味深い。 映像は日本的ではないセンスでアプローチしている一方で、使われる言葉には日本的なこだわりが感じられる本作。一見するとチグハグであるように思えるのだが、上手い具合に融合させて独特で魅力的な作品世界を創造している。この手腕は実に見事である。 肝心のストーリーは官能的で虚無的、そして哲学的である。官能的、すなわち赤裸々、かつ早急に性を求め合うのは若者の物語である事を考えれば、ある意味では当然なのかも知れない。また、虚無的であるのも若者特有だと言えるのかも知れない。 だが、通常の若者の物語と明らかに一線を画するのは、哲学的な部分を抱えているところである。年齢が若くても、しっかりとした自分を持っている人はいるだろう。しかし、本作の若者たちはそれに輪を掛けて、まるで悟りを開いたかのような年齢不相応な落ち着きを見せる。なので本作には若さを理由にした躍動感、つまり一般的に認識されている若々しさは絶対的に欠落している。 但し、いくら落ち着き払っているからといっても未熟な年齢であるのは間違いない。語弊がある言い方かも知れないが、一端の哲学が語れる程の年齢ではないのだ。彼らの哲学には混じり気がない。それは純粋だと言えるのだが、一方では応用が利かない独りよがりの哲学だとも言えるだろう。 年齢を重ね、経験を積めばベストではなくてもベターな選択は出来るだろう。例えそれが現実からの逃避であり自分に対する背信であったとしても、人生をトータルで考えれば、どこかで折り合いをつける事が最善策である場合もある筈だ。だが、それが出来ないのが若さ。純粋であるが故に傷つき、そして壊れてしまう。 本作はナイーブで危なっかしいバランス感覚の若者たちが繰り広げる群像劇である。但し、絶対的な情報量は少ない。箇条書きのように必要な情報は提供してくれるのだが、俳優たちの演技からは物語を展開させる理由、つまり登場人物の内面が豊かに発せられているとは言い難い。従って、刺激的である官能的な要素ばかりに心が捕われ、薄っぺらく感じてしまう節もあるのではないかと思う。 ただ私は、あえて登場人物たちの心情を分かりやすく具現化しなかったのではないかと思う。死が大きなテーマであり、死があらゆる場面であらゆる角度から影響を与え続ける物語が軽薄である筈がないだろう。事実、登場人物の行動を含めた作品の展開を考えれば軽薄でないのは明白である。ならば何故、心情を具現化して提示しなかったのか? それは観る者の死生観に託したのではないかと思う。 心情をハッキリと提示していないので登場人物、ひいては作品の主体性はおぼろげにしか理解出来ないのかも知れない。だが、ハッキリと提示してくれないのであれば、観る者は自分の内面で答えを見つけなければならない。その作業以前でシャットアウトしてしまえば、そこで終わってしまうので乱暴な手法なのかもしれないが、もし自分の内面に結び付くのならば、本作が一層深い作品に感じられるのではないかと思う。 |
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