自分勝手な映画批評
インファナル・アフェアlll 終極無間 インファナル・アフェアlll 終極無間
2003 香港 118分
監督/アンドリュー・ラウ アラン・マック
出演/トニー・レオン アンディ・ラウ レオン・ライ ケリー・チャン
2002年5月、マッサージ店で大暴れしたヤン(トニー・レオン)は右目の上を切り、病院で手当てを受けた。その間、相棒のキョン(チャップマン・トウ)は傍らでずっとしゃべり続けていた。

運命は人を変えるが、人は運命を変えられない

三部作からなるインファナル・アフェアシリーズの最終章。

本作はシリーズ中の他の作品とは少し様相が異なる作品である。というのは、他の2作、前々作「インファナル・アフェア」と前作「インファナル・アフェア 無間序曲」は、シリーズの中の1作品でありながらも(もちろん通しで観た方が楽しめるのだが)単体としても成立していると言って良い作品であった。しかし、本作は前作・前々作を観ていなければ意味を成さない作品になっている。





関係していた2人の警察官の殉職事件に対する潔白が内務調査により証明されたラウ警部。但し、ほとぼりがさめるまで従来の内務調査課ではなく、庶務課の勤務となった。ラウの勤める警察署には手荒な捜査を行なう保安部のヨン警視がいた。ある日、警察署内のヨンの部屋で、ヨンの目の前でヨンの部下のチャン巡査部長が短銃自殺をする事件が発生する。その事件から1ケ月後、今までいた内務調査課に戻ったラウは、早速チャン巡査部長の自殺事件に取りかかる事となった。この自殺事件はラウの素性に深く関係する事件だった。





製作順序と時系列が逆転している前作と前々作。時系列順に整理すると、まず前作「インファナル・アフェア 無間序曲」がシリーズの最初であり、次に前々作「インファナル・アフェア」となる。本作は前々作「インファナル・アフェア」の次の物語。つまり製作順と時系列順が初めて一致した作品が本作である。

但し、前例、すなわち製作順と時系列順を逆転させていた事を考えれば、らしいと言えばらしいのだが、本作も一筋縄ではなくトリッキーな形態をしている。というのも本作は基本的には「インファナル・アフェア」の後日談ではあるのだが、過去に遡って前作・前々作で描ききれなかった事まで言及しており、その事が大きく支配している作品だからである。

この本作の在り方は実に意味深く、そして、ちょっと面白いものが見えてくる。それは、インファナル・アフェアシリーズは最初に製作され、時系列順では2番目となる「インファナル・アフェア」を中心にしたシリーズだという事である。

「インファナル・アフェア 無間序曲」が次の物語である「インファナル・アフェア」に向かって進んでいるのは当然だと言えるが、本作が過去を振り返る作業をしているという事は、本作も「インファナル・アフェア」にベクトルが向いているという事になる。つまりインファナル・アフェアシリーズ三部作とは「インファナル・アフェア」を前後両方向から囲うように構成されているシリーズだと言えるだろう。

この事は、「インファナル・アフェア」がシリーズの中で一番インパクトがあるので最初に製作したという説を、もしかしたら後付けなのかもしれないが、裏付ける根拠に成り得るだろうし、また、もっと踏み込んで言えば「インファナル・アフェア」の前後作が「インファナル・アフェア」の外伝であると主張しているようでもある。

但し、だからといってオマケのように附随している作品だという訳ではない。本作も「インファナル・アフェア 無間序曲」も確かな見応えを感じさせる作品であるのは間違いない。

また、「インファナル・アフェア」がシリーズの中心であるのならば、自ずと「インファナル・アフェア」のクライマックスがシリーズのクライマックスとなる。という事は、「インファナル・アフェア 無間序曲」から「インファナル・アフェア」のクライマックスへと続く一連の道筋がシリーズの順道であり、本作を起点とする道筋、つまり本作から「インファナル・アフェア」へと向かうベクトルは逆道となる。本作にはシリーズの順道から続く道もある。だが、それはクライマックスを過ぎてるが故に迎えた目的も精気もない惰性で歩む道なのである。

つまり本作は、前2作とは趣旨も毛色も違う作品なのだ。スパイ作品ならではの腹のさぐり合いを基調とする緊迫感のある攻防という形態は前2作と変わりないのだが、方向性や存在意義が根本的に違うので心象は大きく異なる。「インファナル・アフェア」のクライマックスまでは、色々とありつつもシリーズはポジティブに進んで行く。しかしシリーズのクライマックス以降の本作は、俄然ネガティブで淀んだ空気に包まれているのである。

この違いをもう少し解きほぐして突き止めると、裏社会を描いていながらも「インファナル・アフェア」のクライマックスまではシリーズの芯には正義があったのだが、本作では、そうではなくなっている事に起因するのではないかと思う。この違いの影響は非常に大きい。本作が不安定であるのはその為だし、前2作よりも心情を鋭く深くえぐっているのもその為である。

個人的には「インファナル・アフェア」のクライマックスでシリーズを終わりにさせても良かったのではないかと思う。「インファナル・アフェア」の後に残った感慨深い余韻でシリーズを完結させても、それはそれで趣きがあったと思う。

ただ、「インファナル・アフェア」「インファナル・アフェア 無間序曲」と観てきた人が本作にもつき合いたくなるのは当然の心理だろうし、つき合うだけの価値、心理に答えるだけの要素は十分に備わっている作品だと思う。そして何より、本作がある事で、シリーズが何を貫いてきたのかが明確になる。そう考えるとシリーズの結びに相応しい作品だと言えるだろう。

世間ではインファナル・アフェアシリーズをゴッドファーザーシリーズに重ねる向きがある。確かに三部作である事や裏社会が描かれている事は共通している。但し、根本的にテーマが異なるので両シリーズを重ねるのは無理があるだろう。つまり、インファナル・アフェアシリーズはゴッドファーザーシリーズのイミテーションでは断じてない訳である。

偉大なゴッドファーザーシリーズと比較されるのは名誉なのかもしれない。しかし、わざわざゴッドファーザーの名を持ち出さなくてもインファナル・アフェアシリーズは、実に価値ある誇り高き傑作シリーズだと思う。


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