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メリー・クリスマス、ミスター・ローレンス 第二次世界大戦中のジャワ島の日本軍捕虜収容所の様子を描いた作品。原作はローレンス・ヴァン・デル・ポスト。 本作を語る上で欠かせないのは、デビッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしといったユニークなキャスティングである。特に本業のミュージシャン、お笑いタレントとしては大活躍していたが、当時、俳優としては未知数な坂本、たけしのキャスティングは大・大・大抜擢だったと言えるだろう。 そんな坂本、たけしの両者にとって本作への出演は、自身の貴重な財産になっている筈だ。坂本は本作への出演が映画音楽のジャンルに活動を広げる足掛かりになったと思うし、何より、本作で生涯の代表曲の1つを手に入れている。また、たけしにとっても「世界のキタノ」の布石になっていると思う。大島渚監督の影響が北野武作品には多少なりとも垣間見れるように感じる。 坂本、たけし以外にも、内田裕也、ジョニー大倉、金田龍之介、内藤剛志等といった面々が登場する。端役の三上博史の姿を見つけるのも面白いだろう。 ボウイに関しては本作時点で、すでに世界的なスーパースターミュージシャンであり、俳優としての実績も多分に備わっていた。ただ、本作公開の1983年は、特にスポットライトが当たった年であり、キャリアのターニングポイントとなった年である。 1983年にボウイは、本作出演以外にも自身の最大のヒットアルバム「レッツ・ダンス」をリリースし、更には大規模なワールドツアー「シリアス・ムーンライトツアー」を興行している。そして、それらの活動を通じてボウイは、それまでのアーティスティックなカルトスターのイメージを脱ぎ捨てている。 このボウイの変化は、新しいファン層を呼び込んだが、従来のファンを失望させている。ちなみに、従来のファン心理は、実名すら出していないフィクション作品ではあるのだが、明らかにボウイをモチーフにしている1998年公開の映画「ベルベット・ゴールドマイン」に色濃く描かれている。 1942年、ジャワ島の日本軍捕虜収容所で、ある事件が起きた。それは朝鮮人軍属のカネモトが巡回中にオランダ兵の独房に入り込み、オランダ兵を強姦したという事件だった。それを知った軍曹のハラは翌朝、カネモトに昨晩の行為を再現しろと命じる。再現すれば処罰ではなく、名誉である切腹で死なせてやると言うのだ。ハラに連れられて立ち会っていた日本兵と捕虜との連絡将校であるロレンスは、猛烈にハラに抗議する。その時、日本軍捕虜収容所の責任者であるヨノイ大尉が付近に到着した。ヨノイに向けて「来て下さい、早く」と叫ぶロレンス。それを暴力で阻止するハラ。そのやり取りの隙をついてカネモトは、周囲にいた日本兵の短刀を奪って切腹を図る。それを認めてハラは介錯してやると言う。そこにヨノイが現れた。ハラはヨノイに事情を説明するのだが、ヨノイは軍事会議の為にバタヴィアに行かなければならないので、報告は後で聞くとして処分保留とし、その場を立ち去るのだった。 前述したキャスティングが上手く活かされた作品だと言えるだろう。活かされているというのは俳優の個性が役柄に繁栄されているからであり、更には役柄同士の関係性にも影響を及ぼしているからである。 本作は、ボウイ演じるセリアズと坂本演じるヨノイのセクションと、コンティ演じるロレンスとたけし演じるハラとのセクションに分けられると思う。もっとも本作は、すべてが調和した、非常にまとまりのある作品である。なので、この分別は、あえて施した分別である。 まず、セリアズとヨノイのセクションだが、これはホモセクシャルを匂わせる関係になっている。そもそもボウイも坂本も、軍人を演じるのには綺麗過ぎるし、線が細すぎる。つまり、美男子2人が軍人を演じると浮き世離れした様相を呈し、俄然、少女マンガチックに映り、ひいてはボーイズラブを予感させるのである。 但し、この2人が作り出す艶かしいムードは、本作の大きな特色である。この特色が戦地に似つかわしくない奇妙な感覚の世界へと誘う。 元々ボウイは、ユニセックスなキャラクターを持ち味にしてきた人物。だが、坂本に関しては現在の姿を考えればホモセクシャルな雰囲気は意外に感じるのかも知れない。だが、本作の前年、RCサクセションの忌野清志郎とユニットを組んでシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリースした際にメイクをし、更にはミュージックビデオでは清志郎とキスシーンまで演じているので、それ程不自然なキャスティングではなかったと言えるだろう。 実はセリアズ役は、最初にロバート・レッドフォードにオファーをし、レッドフォードも関心を示したのだが、結局はレッドフォードが断ったという経緯があるらしい。だが、セリアズはボウイで正解だったのは間違いない。ボウイでなければホモセクシャルなムードは引き出せなかったと思う。 ロレンスとハラのセクションは友情である。セリアズとヨノイの関係にも友情を感じられるが、セリアズとヨノイがホモセクシャルを絡めて神秘的であったのに対し、ロレンスとハラは至って現実的だと言えるだろう。とは言っても、健全なカタチの分かりやすい友情が描かれている訳ではない。捕虜と、それを管理する鬼軍曹という間柄である。しかし、だからこそ、そこで芽生えた友情が尊く感じるのである。 感心させられるのはコンティだ。外国人キャストで唯一日本語の台詞を話すのはコンティ。しかも、(少し聞きづらい時も若干あるのだが)おそらく全台詞数の約半数を日本語の台詞でこなしているのである。 セリアズ、ヨノイ、ハラには妙なカリスマ性があるのだが、ロレンスにはそれがない。だが、本作の実質的な主役はロレンスである。超個性的な周囲に惑わされる事なく、不馴れであろう日本語を操りながら、質実にロレンスを演じるコンティの技量の高さ、そして役者魂には感服である。 たけしにとって本作は、俳優キャリアの最初期段階の作品になるのだが、すでに完成されていると言えるだろう。そう考えると、たけしは元来、俳優の資質が備わった人物だったと言えるのではないかと思う。 決して美男子ではなく、言い方は悪いが質素な容姿。にもかかわらず周囲に埋もれる事のない個性的な容姿。この時点で勝負ありだ。更には、その容姿を活かした独特な表現力も併せ持っている。ラストシーン、たけしの変調した演技は本作のハイライトである。 この2組に共通しているのは、捕虜収容所を運営する日本兵と捕虜という、言わば主従しているような関係が成立している事。だが、その関係性に反して、想いのベクトルは日本兵からの方が強いという事である。その描写の裏側を紐解けば、日本人の西洋コンプレックスみたいなものを感じ取る事が出来る。 但し、感じ取る事が出来る程度の具合である。これは、ホモセクシャルや友情の描写についても同じ。なので、本当にホモセクシャルなのか、絶対的な友情が成立していたのか、また、西洋コンプレックスが存在しているのか、本当のところは明示されていない。 つまり本作は、言葉に頼らずにメッセージを発するという、極めて高等な表現方法を用いた作品なのである。確かに説明を多用する映画は野暮だ。だからといって説明がなければ伝わるものも伝わらない筈だ。それでも見事に実現してしまう大島の才知。もはや、ひれ伏す他ない。 この表現方法は本作の根底にあるテーマにも深く関与している。テーマとは意識や観念、価値観といった事の違い。そのテーマを没主張な表現方法を用いる事により、本作は肯定否定の両観点から示している。 肯定とは、自分とは違う他者を認める事である。無論、その逆が否定。否定こそが争いの原因である事だろう。だが、肯定ばかりしているのならば、争いは起こらないのかも知れないが、一向に関係が深まらない可能性もあるだろう。つまり、肯定否定の両観点が意味するのは、他者と関係を築く事の重要性と難しさである。それは誰もが身近な日常で感じている事だろう。 本作は戦闘シーンが一切登場しない戦争映画である。だが、そうする事で戦争の本質に迫った作品だと言えるだろう。人類が日常的に抱える根本的な課題こそが戦争の本質。戦争映画の中では特殊な部類に入る作品ではあるが、実は素直過ぎる程に真正面から戦争と向き合った作品ではないかと思う。 本作で忘れてならないのが、テーマ曲「メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス」だ。音楽インテリではあるのだが、当時のキャリアには雲泥の差がある世界的なスーパースターであり、アート性も強く有するミュージシャン、ボウイを差し置いて、坂本が担当したのは疑問を覚えるのだが、どうやら坂本が大島に直談判して実現したらしい。 ボウイが担当していても素晴らしいテーマ曲が生まれたのかも知れない。だが、結果として繊細で美しいメロディーを聞けば、坂本が担当した事も正解だったのは間違いない。本作を観た事がなくても「メリー・クリスマス・ミスター・ローレンス」を聞いた事がある人は多い筈。言うまでもなく、クリスマスのスタンダードナンバーの1つとなって、後世まで音色を響かせている名曲である。 |
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★前田有一の超映画批評★ |
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