自分勝手な映画批評
西の魔女が死んだ 西の魔女が死んだ
2008 日本 115分
監督/長崎俊一
出演/サチ・パーカー 高橋真悠 りょう
「魔女が倒れた、もうダメみたい」との一報を受け、まい(高橋真悠)は母(りょう)と共に魔女と呼ばれる祖母(サチ・パーカー)の家に車で向かっていた。車中、まいは2年前に祖母と過ごした1ケ月あまりの日々を思い出していた。

魔女が残した教えとは…

心に傷を負った孫娘と自らを魔女と名乗る祖母との交流を描いた作品。原作は梨木香歩の小説。孫娘と祖母の対比が興味深く描かれている。山林の中での生活は、その描き方や孫娘まいに扮した高橋真悠のキャラクターや演技も含めどこかジブリ作品を思わせる趣だ。しかしファンタジーを思わせる舞台とは異なり、物語の本質・内容は深く重い。物語のきっかけとなる孫娘の悩みはあしたの私のつくり方と同じ類いのモノ。見比べてみるのも面白いと思う。

孫娘と祖母との違いは、当たり前だが年齢差だ。年齢差が示すものは経験値であり、そこから得た実であろう。若さは未熟だ。経験の乏しさは柔軟性を欠く思考力を持ち、未来が永遠だと錯覚する心持ちは、安易な判断と行動を呼び起こす。反対に経験を実としている大人は思慮に優れている。ものすごく当たり前のことだ。

本作は老婆を主役に据えたことが大きな意味を成している。その教えはまさに「おばあちゃんの知恵袋」とも言うべきであろうか、実に良い塩梅だ。病の時、とかくすぐ効く特効薬を求めがちだが、それでは根本的な解決にはならない。劇薬を与えて変化させるのではなく、根本から治療していく。いかにも年配者らしいし、まさに真理だ。

そして何より老人だからこその慈愛と老人ならではの寂しさに心を動かされる。行き着くところ死生観に基づくものだと私は感じた。あたり前にある命なのか? 感謝すべき命なのか? 死があるから命はある。そして限りある命だからこそ今を大切にする。その大切さは、年齢を重ねれば重ねるほど、自分の明日へのプロセスの為に今を大切にするというよりも、自分がこの世に残しておきたいこと、伝えておきたいことといった観点であるとも思う。それは見返りを求めない、無条件の他者への愛情であり希望なのだと思う。そして限りある今だからこそ、何を伝えるべきか、どうしたら伝わるのかと悩み、弱気にもなるのだろう。

別れ惜しみ手を振る寂しさ。これも年齢による違いが如実に現れる。別れが一過性ではなく永遠なら尚更だ。不確定ではあるが「また、いつか」と思うのと「これで最後かも」と思う決心とではまるで違う。残念ながら最後はある。その最後を自分で悟るのは、やはりこの上なく寂しいと思う。

若さは盲目だ。その盲目さは、恐いもの知らずと言うべきか、大人では考えられないような勇気が持てる反面、狭い視野での判断は柔軟性に欠け頑固であり、また、平気で人を傷つけてしまうこともある。私自身、若い頃の行いを思い出すと、赤面してしまう過ちや失敗が多々ある。その時の私を許してくれた大人たちに、大人になって本当の意味のでの感謝の気持ちを持てたように思える。「大人は判ってくれない」と思うこともあった。しかし、おそらく多くは「大人は判っていた」んだと自分が大人になって実感している。

おそらく誰もが後悔したくないと思って生きているのではないか? しかし、おそらく誰もが後悔を背負って生きているのではないか? 後悔先に立たず。しかし後悔を背負っているからこそ他者に愛情を注げるのだと思う。

もしかするとサチ・パーカーの起用に関しては異論があるかもしれないが、私は正解だと思う。原作があるので外国人の起用は常だが、原作を曲げて日本人女優を主役に据えることも出来たと思う。しかし、そうすると本作の魅力である不思議な世界観は損なわれたと思うし、彼女だからこその世界観が本作には必要だと私は感じる。


>>HOME
>>閉じる



★前田有一の超映画批評★

おすすめ映画情報-シネマメモ