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あの人、来るのかい? 大阪にいるアンタの変わり者の弟 しっかり者の姉とだらしない弟を中心に家族愛を描いた作品。 気が合わなくて苦手な人もいるだろう。理解出来なくて嫌いな人もいるだろう。そういう人には近付かないのが何よりの得策だ。だが、そうも言っていられないのが現実。ましてや、それが身内であるならば、尚更そうはいかないだろう。 大学病院に勤務する医師との結婚を目前に控えている小春。小春は東京の郊外で薬局を営む母と亡くなった父の母、小春にとっての祖母と一緒に暮らしていた。小春には母の弟で、小春の名付け親である叔父の鉄郎がいるのだが、何かと問題を起こす鉄郎は親戚中からつま弾きにされていた。5年前の小春の父の十三回忌で酒を飲んで大暴れした鉄郎は、それ以来行方不明。結婚式の招待状を送っても、宛先不明で戻ってくる始末。しかし結婚式の当日、どこで聞き付けたのか鉄郎がふらりと現れ、披露宴に出席する。酒グセの悪い鉄郎は、絶対に酒を飲むなと注意され、鉄郎自身も飲む気はなかったのだが、目の前の酒の誘惑に負けて飲んでしまう。そこで万事休す。酒に酔った鉄郎は、案の定、披露宴をブチ壊してしまう。 この文章を書くにあたり、本作の資料を少しばかり調べてみたのだが、そこから私なりに見当をつけたのは、本作の製作には2つの事柄がモチーフ、あるいはモチベーションになっているのではないかという事だ。 まず1つは、1960年に市川崑監督が製作した本作と同名の映画「おとうと」である。本作はリメイクではないのだが、内容を照らし合わせれば、その影響は多分に感じられる。 腑甲斐無い弟としっかりした姉の構図は、市川崑の「おとうと」、及びその原作である幸田文の小説が発祥でも発明したものでもないだろう。ただ、オマージュしたシーンが本作にある事を考えれば念頭にあったのは紛れもない事実であるだろう。40年の歳月を経て引き継がれたこのテーマ。願わくば後の作家にも受け継いで貰えたら面白いのではないかと思う。 もう1つは東京都台東区に実在するホスピス「きぼうのいえ」の存在である。このホスピスは、身寄りのない人、行き場がない人の為の施設らしいのだが、その趣旨への共感・賛同が、あくまでも憶測ではあるのだが、本作製作の動機になったのではないかと感じる。 作中で「きぼうのいえ」を実際に登場させている訳ではない。だが、「きぼうのいえ」をモデルにした架空のホスピスの描写を通じて(決して宣伝している訳ではないのだが)「きぼうのいえ」の経営方針や事業内容を分かりやすく説明しているようでもある。 そういったホスピスの実情を目の当たりにすると、その背後にある社会の問題が透けて見えてくる。そういった事を考えると、家族の在り方というある意味では局地的な内容なのだが、そこを導入口として、裏に潜む大きなテーマを取り上げた、あるいは逆に社会問題を個人レベルに噛み砕いた作品、更には、その事を問題提起している作品だと言えるだろう。 但し、社会全般が抱える問題を取り上げたとしても、あくまでも本作は家族の在り方、すなわち個人的な問題を描いた作品である。目線を高くしたからといって大切な足元を疎かにする事はない。個人的な問題を社会問題に結び付ける事は、一人一人の個人が社会を形成しているという事実、あるいは意識を再認識させる作用を促すだろう。だが同時に個人と社会との隔たりを如実にもさせている。 いくら悲しくて辛い事があっても朝になれば陽は昇り、新しい一日が始まる。個人的な事情で社会は止まってはくれない。ただ、それは裏返せば人間には困難を乗り越える力が備わっているのだという証しなのだと思う。そしてそれは、山田洋次からのエールなのではないかとも感じる。 私の好みも関係しているとは思うのだが、率直に言って本作の演出には馴染めない面もある。特に前半部分にその思いを強く感じる。それでも段々と引き込まれ、結局は夢中になってしまうのは、実に面白い体験だと個人的に感じた。 そう至るのは、やはり本作が掲げたテーマに因るところが大きい。だが、それだけではない。笑福亭鶴瓶の演技が私の感情を揺さ振った。 テレビのバラエティー番組での鶴瓶が、数多いお笑い芸人、あるいはタレントの中でも他に類を見ない独特な個性の持ち主である事は誰もが知るところであるだろう。その個性を鶴瓶は映画の中にもしっかりと持ち込んでいる。しかも、役者としての表現力も実に確かである。本作での鶴瓶の姿に苛立ちを覚え憤慨しつつも大いに笑わされ、そして大いに泣かされてしまった。 |
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