自分勝手な映画批評
ちはやふる−下の句− ちはやふる−下の句−
2016 日本 102分
監督/小泉徳宏
出演/広瀬すず 野村周平 真剣佑 松岡茉優
千早(広瀬すず)は列車の中で、小学生の頃、太一、新と一緒にチームを組んで最後に出場したかるた大会の時の夢を見ながら眠っていた。その寝顔を見た乗務員が、心配して同乗する太一(野村周平)に声をかけた。

かるたが一番楽しかったのは、いつやった?

映画「ちはやふる」の第二弾。シリーズものの映画でありがちな事は、次作までの期間が長期間になってしまう事だ。そうなると当然、弊害が生じる恐れがあり、最悪の場合、キャスト変更という事もある。

その点、本作は前作、上の句の公開から1カ月余りで公開されている。おそらく、前作の撮影終了後、すぐに本作の撮影を開始したのではないだろうか。もしかしたら、撮影が両作で重なっていた期間があったのかも知れない。何故なら、前作の最後に本作の映像が、まるでテレビドラマの次回予告のように映し出されているからだ。

いずれにせよ、前作から何ら違和感なく本作に臨む事が出来るので、観る者にとっては有難い話だ。





電話で「俺はもう、かるたはやらん」と言った新の真意を確かめる為に、新の住む福井まで来た千早と太一。だが、千早は土壇場になって、新に会う事に躊躇っていた。しかし、そこに偶然、新が通りかかり、思いがけず再会を果たすのだった。新の家に行った千早と太一だが、新の態度は素っ気なく、すぐにでも帰れと言うような口ぶり。嫌なムードを打破すべく、千早は今、かるたをやろうと提案する。かるたの札を広げながら千早は新と会って、かるたが大好きになった事、かるたを新と初めてやった時、新から1枚取れた事が今でも自慢なのだと嬉しそうに話す。何故なら、新は、いつか名人になる人だから。すると新は「名人なんかになってどうするんや」と言った。驚く千早だが、その理由は新の母が隣の部屋から現れて分かった。襖が開いて見えた隣の部屋には、かるたの永世名人である新の祖父の遺影があった。





千早が主役ではあるものの、千早以外の登場人物の内面がクローズアップされる事が多かった前作。しかし、本作では千早の内面がフォーカスされている。そうなると千早を演じる広瀬すずには演技の幅が要求されるという事になるのだが、広瀬はしっかりと対応しており、前作での千早のキャラクターを維持しつつ、内面を上手に掘り起こしている。

ただ、フォーカスを変えた結果、とても賑やかだった前作に比べて幾分、全体のトーンは落ち着いてしまっている。それは大事なセールスポイントを手放した事になるのだが、連作だという事を考えると、このメリハリは効果的だと言える。そして、前編、後編ではなく、上の句、下の句とした意義を深いものにしているとも言える。

また、主役の1人とも言える重要なキャラクター、新が前作以上にフィーチャーされている事も本作の特徴だ。演じるのは真剣佑。真剣佑の演技を前作で私は初めて観たのだが、観終わった後、キャストの名前を確認するまで真剣佑だとは気づかなかった。と言うのも、父親が千葉真一という事は知っていたので、私は勝手に真剣佑をアクション俳優なのだと思っていたからである。そして、真剣佑はアクションが一切なくても見事な俳優だったからである。

真剣佑の演技は、実に繊細だ。それは、前作も同様なのだが、本作では、非常に心を動かされる演技をしている。メガネの奥で、大きく見開かれた目に熱い思いがこみ上げてくる。

ちなみに真剣佑は本作以降に新田真剣佑と芸名を改名しているのだが、新田は「あらた」と読み、それは「ちはやふる」の新に由来しているとの事だ。

本作から加わったキャストが、かるたクイーン詩暢を演じる松岡茉優だ。この松岡、森永悠希や矢本悠馬らと同様、ベテラン俳優顔負けの演技巧者振りを発揮するので舌を巻く。本作での松岡は妖艶であり、私は1970年代に多く作られた「金田一耕助」映画に出ていても不思議ではないと感じた。ただ、登場人物には二面性を持っているキャラクターも多いのだが、詩暢もそうであり、松岡は茶目っ気たっぷりの演技も披露していて、それが笑いを誘う。

前作と同じく、かるたの試合のシーンが本作のハイライトとなる。かるたの試合は前作同様、緊張感が漲るシーンとなっているのだが、前作とは少し異なる点がある。それは、本作では緊張感に楽しさが加味されている点だ。

この楽しさとは、単に緊張状態に負けない、図太い神経を持っているという事が原因の楽しさではなく、高度なレベルで争うからこそ生まれる楽しさである。普通の人が、そのようなステージに上がることは非常に難しい。よって、未経験の人も多くいる事だろうが、本作を観れば追体験する事が出来る。

元来、映画やテレビドラマといった映像作品において、作中の競技における緊張感を観る者が実感出来る程までに表現する事は、中々、難しい。その大きな理由となるのが、所詮はフィクションだという事である。人工の緊張感が、スポーツ観戦等から伝わるリアルな緊張感に及ばないというのは仕方ない事である。

にもかかわらず、映画「ちはやふる」では、スポーツ観戦さながらの緊張感を実現させている。その理由の1つとなるのが、かるた競技者にはスポーツ選手程の肉体が必要ない事だと言えるだろう。だから、実際の競技者の目には違って映るのかも知れないが、素人目には俳優達が競技者を演じても、違和感なく映る筈だ。無論、俳優達が緊張感を伝えるべく、渾身の演技をしている事、それを際立たせる演出が施されている事も大きい。

そして、かるたの試合のシーンに至るまでの丁寧な積み重ねを作品の冒頭から、本作に関して言えば前作から行っている点も非常に大きい。つまり、雑多とも思える数々のシーンは、結局のところ、かるたの試合のシーンへと向かっているのである。

もっとも、クライマックスに向けて周到な用意をする事は映画作りの基本だ。だから、緊張感が伝わりにくいという懸念がある分、より一層、用意を周到にしていたのかも知れない。しかし、私は必ずしもそうではないと思う。

本作中で千早の試合を肉まんくん、かなちゃん、机くんの3人が並んで座り、見守っているのだが、3人の座った姿は3段の階段状になっている。気を付けていないと気付かないのではないかと思う、言わば、些細な演出なのだが、そんなところにまでも監督の小泉徳宏は神経を行き渡らせて演出をする人物なのだろう。なので、用意周到なのは本作、及び前作に限った事ではなく、小泉の資質なのではないかと思う。

もちろん、原作ありきというのは大前提である。ただ、小泉の映画作りに対する真摯な姿勢や英知には感心させられるし、また、小泉が監督と脚本を兼任して作品を掌握している事が、とても大きな効力を示しているとも感じる。


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