自分勝手な映画批評
黒い十人の女 黒い十人の女
1961 日本 103分
監督/市川崑
出演/山本富士子 岸恵子 宮城まり子 船越英二
夜道を一人で歩く双葉(山本富士子)の事を多くの女性が監視をしていた。そして、双葉の後をつけて行った。

誰にでも優しいって事は、誰にも優しくないって事よ

好色なテレビプロデューサーと、彼と関わり持つ多くの女性たちとの奇妙な関係を描いた作品。

本作は市川崑自らの手により2002年にテレビドラマとしてセルフリメイクされている作品である。リメイクした真意や経緯は私には分からないのだが、市川にとって思い入れのあった作品だったのではないかとの想像は容易い。ちなみに市川は1976年に製作した「犬神家の一族」も2006年にセルフリメイクして再映画化している。





テレビプロデューサーの風は、双葉という妻がありながらも数多くの女性と浮気をしていた。しかも驚く事に、妻の双葉を含め風と関係のある女性は皆、風と関係する自分以外の女性の存在を知っているのだった。このすべてに異様な状態の元凶は風だと考えた妻の双葉と愛人の一人で女優の市子は風の殺害を企てた。





本作は本来なら、おどろおどろしいサスペンスとして料理しても不思議ではない題材であり、下手すればホラーにまで発展するような題材である。しかし、そうしないのが本作の面白いところであるだろう。

おどろおどろしいサスペンス、ホラーにならなかったのは事件性よりも個々の心理と人間関係に重きを置いているからである。作品タイトルどおり十人の女性が繰り成す本作。時間の関係からか、実際には十人すべてを描けている訳ではないのだが、それでもスポットライトが当てられた女性たちの個々のキャラクターはハッキリ色分けしている。

それぞれの女性の、それぞれに違った愛し方と女心がイニシアチブを握っているので、画一的にひとつの方向へとは進んでは行かない。だから一目散に転がり落ちる、おどろおどろしいサスペンスやホラーではなく、多角的な人間模様として映し出される。十人十色という言葉があるが、その言葉を実践するような物語。もしかしたら、その言葉にあやかって、あるいは掛けて意識的に十人の女にしたのかも知れない。

また、本作の作風は、風を演じる船越英二の影響も大きいと考えられる。船越はイタリアの伊達男マルチェロ・マストロヤンニも顔負けのムードでプレイボーイを好演している。その物腰の柔らかな風情は本当ならシリアスで窒息しそうな物語をガス抜きさせ、まろやかに治める。そして何より、無条件に近いカタチで愛される男に説得力を与えている。

モダンなセンスを感じるのも本作の特長であるだろう。絶対的な独自の美意識を基に、変則的だが絶妙なスクリーン上のレイアウトや光と陰の巧妙な操作等を用いて、写実な日常をスタイリッシュな空間へと転換させるのは市川ならではの手腕だと言えるだろう。特にポートレート風なオープニングのタイトルバックはアイデアの妙も相まって秀逸。市川の公私のパートナーである和田夏十の脚本もスマートな言葉で綴られており、市川のセンスに同調している。

本作には物語の本筋とは別に興味深く感じられた点がある。それは、何気なしに時代を克明に切り取って映し出している事だ。

当時は時代の変革期と呼べるような時期だったのだろう。役柄にテレビプロデューサーを起用する事自体、テレビの台頭という当時の新しい状況を物語っていると思うのだが、劇中に登場する「メカニズムの中で時間に追い掛けられながら自分をフルに使って勝負するのが現代の生き方だと思いますけど」なんて台詞を聞くと、殊更新しい価値観の時代に踏み込んだ時期なのだと実感させられる。と同時に、もはや当たり前となり、確認しようとすらしない現代の価値観の本質を突き付けられ、気付かされてハっとさせられる。

後の大御所の若かりし日に遭遇出来るのは昔の作品からのプレゼントだ。但し、皆が存在感を示せている訳ではない。中村玉緒はチャーミングに輝いているが、岸田今日子は凡庸な脇役に収まり、伊丹十三(当時は伊丹一三)に至っては顔見せ程度である。だが、それらも今となっては貴重なアーカイブではないかと思う。


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