|
||||||||||||
あの人の夜叉は背中にあるのと違うで、心の中に住んどるんじゃ ヤクザから足を洗った、ある漁師の生きざまを描いた作品。 本作は「世界のキタノ」になる前、コメディアンを主な生業としていた頃のビートたけしの出演作品である。とは言っても、たけしは本作公開当時、すでに演技者として高い評価を得ていた。ただ、それでも本作のようなタイプの作品に出演するのは、大抜擢だったと言えるだろう。 たけしは、その期待に冴えに冴え渡った演技で答えている。その鬼気迫る演技は、強烈なインパクトを残し、物語に多大なるアクセントを付けており、もはやコメディアンの範疇に収まるものではない。無論、たけしのその後の活躍は知ってのとおり。そこまで予見していたとは思わないが、少なくとも本作でのキャスティングは、価値あるキャスティングだったと言えるだろう。 ただ、たけしのキャスティングには、違った意味でも価値があると言いたい。それは「高倉健は座らない」等といった高倉にまつわるエピソードの多くが、たけしの口から世間へと漏れ伝わった事、つまり、高倉健伝説の流布には、たけしの本作への出演が大きく関係していると思うからである。作品内容とは一切関係ない話なのだが、図らずも希代のカリスマ映画スターの厚いベールを僅かながらも剥がした功績が、たけしをキャスティングした本作にはあると言えるだろう。 修治は、日本海に面する小さな漁村の漁師であり、妻の冬子と3人の子供、妻の母と暮らしていた。修治は漁村へと居を移し、漁師を始めて15年足らずではあったが、人望が厚く、漁師たちのリーダー格になっていた。ある日、その漁村に小さな子を連れた螢子という女が引っ越してきて「螢」という飲み屋を始めた。螢子は大阪のミナミから来たという。修治と冬子にはミナミに秘められた過去があった。 実に高倉らしい作品だと言えるだろう。まず、そう感じるのは、ヤクザを多く演じてきた高倉のキャリアが活かされているからである。だが、それだけではない。心の機微を重視し、それを言葉ではないところで表現しようとする作品の主旨が、高倉の資質と強くリンクしていると感じるのである。 ストーリー自体、良く出来てはいる。ただ、本作は文章で言うところの行間も楽しめる作品であり、その行間の豊かさこそが本作の魅力である。だから、ビターな大人のハードボイルド、ラブロマンスが実現している。この手の物語には高倉の寡黙さが実に良く似合う。言い換えれば、高倉でなければ本作の深い味わいは引き出せなかったであろう。 但し、本作の秀でたところは高倉だけではない。舞台となる漁村の描写も本作のクオリティーに多大な貢献をしている事も見逃せない。特に村民を演じる俳優たちが素晴らしく、皆が堂に入った見事な演技を披露して物語を支えている。 田中邦衛、あき竹城、丹古母鬼馬二といったロケーションに馴染み易い、個性派俳優を起用している事も大きいとは思うのだが、それでも彼らが何の違和感もなく、むしろ何十年もその土地で暮らしているかのように見えるのには恐れ入った。自然過ぎるので目立たないのかも知れないが、彼らが類い稀な演技巧者である事が本作で証明されていると言えるだろう。 そのような脇を演じる俳優たちの熟練の仕事振りが、本作の絶対的な土壌になっているのは間違いない。そして、そういった土壌があるからこそ、高倉が心置きなく魅力を発揮出来ているのだと強く感じる。もちろん高倉自身も漁師に成り切っている。 田中裕子、いしだあゆみの2人のヒロインの存在感も本作の見どころとなる。この2人も他の俳優たちと同様、土地柄に馴染んでいる。それを大前提として、2人は美しく咲き誇っているのである。 立場は大きく異なるのだが、2人の役柄に共通しているのは、脆さと強さが同居している事。それを美しさとして表現するのだから、やはり2人も只者ではない。花も実もある名女優2人の切ない艶姿が、本作の成就には不可欠である。 「時代おくれの男になりたい」と河島英五は歌ったが、ある意味で本作は、それと通ずるような作品ではないかと思う。不器用な生き方は、確かに時代遅れなのかも知れない。しかし、時代遅れであるからこそ、粋な男の、そして女のロマンが生息していると言えるだろう。 後にNHK連続テレビ小説「ふたりっ子」のヒロイン等で活躍する岩崎ひろみが、修治の娘役で出演している。 |
>>HOME >>閉じる |
|||||||||||
★前田有一の超映画批評★ |
||||||||||||