自分勝手な映画批評
転校生 転校生
1982 日本 112分
監督/大林宣彦
出演/尾美としのり 小林聡美 志穂美悦子 柿崎澄子 樹木希林
一夫(尾美としのり)は、自らが8ミリカメラで撮影した地元・尾道の景色の映像を観ていた。一夫の父(佐藤允)は「こうやって改めて観ると中々綺麗なもんじゃのう」と感心した。だが、父はカーテンを開けて「学校遅れるぞ」と言って一夫に学校に行く事を促し、一夫も父の言葉を素直に聞き入れるのだった。

サヨナラ私、サヨナラ俺

体が入れ替わってしまった中学生の男子と女子を描いた作品。原作は山中恒の児童文学「おれがあいつであいつがおれで」。

もし、自分が男だったら、女だったらとか、生まれ変わったら男が良い、女が良い等といった事を考えたり、話したりした経験は人生で誰しも1度はあるのではないかと思う。なので、異性になるというのは割と身近な関心事ではないだろうか。だから、男女の入れ替わりを題材とする映画やテレビドラマが多くあっても不思議ではないのだが、その数は決して多くはない。その理由は色々とあるのだろうが、私は本作が理由の1つになっていると考える。

本作は、男女の体が入れ替わってしまう事を題材にしたパイオニア的な映像作品だ。そしてパイオニアにして、否、パイオニアだからこそ、男女の体が入れ替わってしまうという題材の本質的な部分を本作は描き尽くしてしまった感がある。よって、男女の体が入れ替わってしまう事を題材にしてしまうと本作の二番煎じと思われてしまう恐れがあるので、人々の関心に比べて製作数が少ないのではないかと私は思う。

実際、男女の体が入れ替わってしまう事を題材にした作品が製作された場合、必ずと言って良い程、本作が引き合いに出される。そういった事もあってか、男女の体が入れ替わってしまう事を題材にした作品では、あえて本作を彷彿とさせるシーンを取り入れて本作にリスペクトの意思を示している作品も多い。

但し、パイオニアであるが故の産みの苦しみはあったようだ。当時としては前代未聞の作品だったので、製作するにあたり、賛同が得られなくて資金調達が儘ならないといった苦労があったらしい。

また、パイオニアだからといって、単に早い者勝ちで得をしたという作品でもない。作品内容に魅力があるからこそ、本作が一目も二目も置かれる作品になっているのは間違いない。そして、作品内容から魅力が発信されているのは、大林宣彦監督の熱い精魂が込められているからに他ならない。





一夫が通う尾道の中学校に、一美という女の子が転校してきた。一美は父親の仕事の都合で神戸から引っ越してきたのだが、以前は尾道に住んでいた事もあるという。一美の苗字は斉藤で、一夫と同じ苗字。つまり、一夫と一美の名前は一字違いであった。その事でクラスメイトから「お前ら兄弟か」「それとも夫婦か」と冷やかされる一夫。その時、一美が思い出し、口を開く。「一夫ちゃん? そうよ一夫ちゃんだわ。ねぇ幼稚園の時一緒だった、でべその一夫ちゃんでしょ。ほら私と一緒におねしょした斉藤一夫ちゃんでしょ。ほおら、リス組で一緒だったじゃない」と。それを聞いて「違うったら違う!」と全力で否定する一夫だったが、一美は、あの一夫ちゃんだと確信しており、昼休みに放送室で弁当を食べている一夫を問い詰める。しかし、一夫は認めない。そこで一美は下校時に待ち伏せをして、更に一夫を問い詰める。そして、「まだ、あの秘密、誰にも言ってないのよ」と一夫に言った。





本作からは、強烈なパワーが感じられる。その原動力となるのが、扱った題材もさる事ながら、それ体現した2人、尾美としのり、小林聡美の演技だ。本作の尾美と小林は両者共に過ぎる程の体当たりな演技をしている。その体当たりの演技がなければ、ひいては尾美と小林がキャスティングされていなければ、本作の成立はなかったと言っても絶対に過言ではない。

体当たりの度合いでは、女性である小林に目が行く事だろう。作品内容を考えると必然性があると言えるのだが、10代半ばの少女が演じるには同情を禁じ得ないシーンが作中、いくつもあり、当時の小林に相当な葛藤があったであろうという事は容易に想像がつく。

ただ、尾美も小林に負けず劣らず体を張っている。尾美は小林と同年齢なので、尾美も多感な時期であって、羞恥心も非常に強い時期だった筈だ。そんな時期に、ほぼ全編にわたって極度に女々しい演技をしなければならなかった尾美にも大きな葛藤があったに違いない。

だが、尾美も小林も、その葛藤に打ち勝ち、本当に素晴らしい演技を披露している。10代半ばにして見上げた役者根性なのだが、その甲斐あってと言って良いだろう、本作は両者共に代表作の1つに数えられる作品となっている。但し、あくまでも代表作の1つに数えられる作品であり、尾美と小林、共に本作だけで語る事が可能な俳優ではない。それも実に素晴らしい事であり、尾美も小林も本作以降、順調にキャリアを重ねて、押しも押されもせぬ立派な俳優になった事は誰もが知るところだ。

興味深いのは、尾美が節々から優しさの滲む俳優とした成長した事であり、一方の小林も、どこか男前な感じのする女優に成長した事だ。もちろん、そういった事は本人の資質が影響しての事だろうが、尾美と小林、どちらの俳優人生にも本作が影響を及ぼしているのではないかと考える事も出来る。

ともあれ、尾美も小林もオーディションを経て役を掴んだようだが、尾美と小林を選んだ事は本作、ひいては日本のエンターテインメントにとって、とても重要な事であり、選者は、かなりの目利きだったと言える。

本作の舞台が広島県尾道市である事も、本作には欠かす事が出来ない要素となっている。海と山の両方を有するという贅沢で、尚且つ、ノスタルジックな日本の情緒を感じさせる尾道のロケーションは、ある種、おとぎ話のような本作の舞台に相応しい。また、初な中学生の心情を際立たせる効果も備わっている。

尾道は以前より文学や映画の舞台になっていたのだが、本作の監督、大林が本作を皮切りに尾道を舞台とした作品を何本も撮った事で、その特色は一層強くなって全国的に名を馳せ、聖地巡礼と称して、大勢の人が訪れるようになった。そして、本作の舞台が尾道になったのは、大林が尾道出身だという事に関係している。

従って、大林が監督ではなかったら、尾道が舞台ではなかったという可能性が高かったと言える。もし、大林が監督ではなく、本作の舞台が尾道ではなかったら、尾道の状況は随分と違っていただろうと推測する。加えて、前述した制作のタイミングやキャスティングが違っていたら、色々と違う結果を招いていたような気がする。そう考えると、まるで運命に導かれて出来上がった奇跡のような作品のように思えてしまう。



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