|
||||||||||||
運命戦は運命じゃない 上の句、下の句に続く、映画「ちはやふる」シリーズの第3弾となる作品で作品タイトルどおり、シリーズの最終章となる作品。 下の句を観終わった後、本作を観るまでの間にアニメ版の「ちはやふる」を少しだけ観る機会があった。奏ちゃんが実写版と瓜二つな事に驚いた。太一や肉まんくん、机くんは原作(私はアニメしか観ていないのだが)に寄せてきていると感じた。逆に、イメージが大きく違うと感じたのは府中白波会の原田先生と、かるた部顧問の宮内先生。そして、千早のイメージも大分違った。 原田先生や宮内先生はまだしも、主人公・千早のイメージが違う事は原作ファンにしてみたら大ひんしゅくであるだろう。しかし、インターネット上の意見を見る限り、概ね、受け入れられているようである。それは広瀬すず、及び作品に魅力があるという事の証しだと思うのだが、その一方で原作ファンの心の広さであるとも思った。 近江神宮で小倉百人一首かるた名人位・クイーン位決定戦が行われ、周防が千早や太一、新の師匠、原田に、詩暢は千早を挑戦者決定戦で破った伊織にそれぞれ勝利し、周防は名人位5連覇、詩暢はクイーン位3連覇となった。特に周防の強さは凄まじく、札が読まれる前の一瞬の呼吸を聞き分ける事が出来るので、札が読まれる前に札を取ってしまい、原田は手も足も出ない状況だった。そして、周防は5連覇の要件を満たしたので、永世名人となった。ただ、周防は予てから永世名人になったら引退すると宣言しており、その事を記者に問われると改めて引退を宣言した。そこに決定戦をモニター観戦していた新が現れ、「辞めんといてくれや、まだ名人でいてくれや、原田先生の仇は俺がとるんや」と叫んだ。すると、周防は「じゃあ、もう1年、おまけ」と引退を撤回するのだった。同じ時、千早は詩暢に向かって「来年こそ、ここで私とかるたしようね」と言っていた。その後、すぐに顔を合わせた千早と新。新は、もう1つ、やりたいことがあると話し始め、「かるた部を作りたいんや、この近江神宮で千早のチームと戦ってみたい」と千早に告げた。再び新と一緒にかるたを出来る事に喜び、「今度、会う時は敵同士だね、瑞沢(高校)負けないよ」と笑顔で答える千早。そんな千早を見て新は、不意に「好きや千早」と告白をし、その場から立ち去った。残された千早は倒れてしまった。 当初、本作を製作する予定はなく、上の句と下の句で終わらせるつもりだったらしい。しかし、製作者は手応えを感じたのか、製作に至った。上の句と下の句が上手くまとまり、出来も良かっただけに蛇足になるリスクがあったのだが、結果として製作して良かったと断言したい。 私が考える蛇足にならなかった最たる理由は、本作が前2作よりも先の事をテーマに掲げていたからである。上の句と下の句では、友情や恋愛といった事が描かれていた。しかし、本作では、引き続き友情と恋愛を描きつつも、千早達が高校3年生に進級した事もあり、将来や人生といった事もテーマとして掲げている。 競技かるたを通じて友情や恋愛を学び、その上で将来や人生について考えるようになる。そんなレールがシリーズ3作を通じて非常に上手い具合に敷かれている。だから、蛇足などとは一切感じず、それどころか、本当は本作の製作は最初から予定していたのではないかと疑いたくなる程なのである。 将来や人生を考える上で、大人の影響力は大きい。従って、前2作のように若者達だけでストーリーを進行させるのではなく、大人がストーリーの要に介入する。前2作では原田先生は若者達を静かに見守る感じだったし、宮内先生に至っては影響力は微塵もなかったのだが、本作では時としてストーリーの方向を変えるアクセントになっていて、発した言葉がキーワードとなり、作中でリフレインされているのである。 原田先生、宮内先生を凌ぐ存在感を示すのが、本作から加わった周防であり、本作のキーパーソンと言って良い。20歳代で、留年しているとはいえ、まだ学生なので、原田亜先生や宮内先生とは少し立場は違う。だが、若いながらも永世名人に相応しく、まるで仙人のように達観している。そして何より、キャラクターが強烈。漫画原作の常だと言えるだろう、「ちはやふる」シリーズの登場人物は総じて個性豊かだが、その中でも周防の個性は際立っている。 ミステリアスで孤高、カリスマ性がある一方で、抜けている部分もあり、それが笑いを誘う。そんな難しいキャラクターを賀来賢人が見事に演じている。一言で言えば怪演となるのかも知れないが、ひれ伏せさせるような芯の通った説得力も演技にはある。賀来の才能を本作では感じずにはいられない。 青春時代特有のハイテンションで、一気に駆け抜けた上の句。ペースを少し落として、壁にぶち当たった競技者の苦悩を描いた下の句。つまり、上の句と下の句では全然とまでは言わないが、ムードが違うのだが、本作は両方のムードを取り入れている。下の句の落ち着いたムードは周防が関係しているセクションであり、上の句のハイテンションなムードは、かるた部のメンバーが担当する。 私は上の句のハイテンションなムードが楽しかったので、復活した事は嬉しい。しかし、少し複雑な気持ちにもなった。と言うのも、かるた部の従来のメンバーがハイテンションをリードしているのではなく、新メンバーとして加わった新入部員がリードしているからである。しかも、新メンバーにフォーカスされているので、従来のメンバーの見せ場が少なくなってしまった。 肉まんくんにしろ机くんにしろ奏ちゃんにしろ、皆が愛すべきキャラクターである。そんな彼らが、新メンバーをサポートする出番しか与えられなかったのが何とも惜しい。ただ、佐野勇斗と優希美青が演じる新メンバーも負けず劣らず、十二分に個性的で愛するに値するキャラクター。それに、新メンバーをサポートする事で先輩らしさ、すなわち成長が感じられるので良しとしたい。 さて、肝心の千早なのだが、主役にしてはエピソードが弱い。本作の実質的な主人公は上の句同様、太一だと言える。だが、存在感が薄まった訳ではない。広瀬の外連味のない元気の良さ、明るさは太陽のように燦々と輝いている。広瀬という太陽がいるからこそ、映画「ちはやふる」シリーズはエネルギーに満ち溢れ、躍動しているのだと思う。 そんな千早の太陽光を全身全霊で浴びているのが、太一である。イケメンで常に学力が学年トップの秀才。そんな太一の事を太陽だと感じている人もいるのだが、もっぱら太一は千早の前では光を浴びる側になっている。そして、その事に太一は悩んでいる。 だが、千早の価値観は違う。千早も太一も太陽光を浴びる側。従って、太一は仲間であり同志。千早の考える太陽とは、かるた。そして、かるた馬鹿の千早なので、頭にも心にも恋愛が付け入る隙間がないのである。このような価値観のズレがシリーズを通じてのストーリーを豊潤にさせていると言える。 千早の悩みは、ある程度ではあるが下の句で解決した。しかし、太一の悩みは未だ解決の糸口を見出せず、時を重ねて大きくなっている。だから、本作の実質的な主人公が太一なのであろう。太一の上の句からの変化、あるいは成長、そこにアジャストする野村周平の演技に注目したい。 演出が素晴らしい事も特徴として挙げられる映画「ちはやふる」シリーズ。本作も見事だと言う他ない。シリーズを通じて、シーンはおろかカットに至るまで小泉徳宏の演出は、きめ細やかで抜け目なく、非常に緻密、加えて客観性があって合理的であるとも感じた。 なので、脚本も兼ねている事もあって、小泉監督は、まるで建築の図面のような詳細にまで及ぶ演出プランを撮影前に用意していたのではないかと推測したくなる。そうであってもなくても、観客を楽しませる為に考えて考えて考え抜いているハリウッド映画との共通性を感じるし、と同時に小泉監督は理系的な考え方が出来る監督ではないかとも感じた。 映画と理系は相性が良いと私は考える。何故なら、数多くのカット、シーンの構造物が映画なので、理系的に考える方が都合が良いのである。客観性がある事も、とりわけエンターテインメント性を重視した映画では重要。狙いは分かるが独りよがりで観る者に届かない、例えば、笑わせようとしているのだろうけど笑えない作品は残念ながら存在している。 もう1つ小泉監督の演出で特筆したいのは、キャストの魅力を存分に引き出している事である。作中、キャストは皆、活き活きと演じている。なので、役を通り越してキャストに好感を持ってしまう、もっと率直に言えばファンになってしまい、他の出演作品も観たいと思ってしまう。本作で「ちはやふる」シリーズが完結してしまうのは寂しい限りなのだが、今後の各人の活躍に期待をしたい。 |
>>HOME >>閉じる |
|||||||||||
★前田有一の超映画批評★ |
||||||||||||