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恋愛なんかしてるから女を知らないんだ 無秩序な青春を送る高校生の恋愛を描いた作品。 原作は石原慎太郎の同名小説。この小説は慎太郎が一橋大学に在学中に発表し、その内容からセンセーションを巻き起こした第34回芥川賞受賞作品。言わば、慎太郎が世に出た作品である。 そして本作は慎太郎の弟、石原裕次郎の映画デビュー作である。何でも原作小説は裕次郎から聞いた話をモチーフにして慎太郎が描いた作品らしい。度を越す過激さが本作にはあるので、実体験をそのまま写し取ったとは思えないのだが、それでも節々に石原兄弟との共通性は感じられる。スター、あるいは公人になる前の石原兄弟の姿だと想像しながら、重ね合わせて本作を観るのも面白いのではないかと思う。 但し、裕次郎は本作で裕次郎を演じてはいない。裕次郎を演じるのは長門裕之である。裕次郎は長門が演じる裕次郎をモデルにしていると思われる主人公・津川竜哉の仲間の1人、ストーリーにまったく影響を及ぼさない端役を演じている。しかしながら、その存在感は素晴らしく、大器の片鱗は十二分に感じ取れる。 長門は本作で相手役を演じた南田洋子と後に結婚し、終生を共にした。また、長門の実弟・津川雅彦の芸名の名付け親は慎太郎であり、その由来は本作で長門が演じた津川竜哉から来ているらしい。 バスケットボール部からボクシング部へと移籍した高校生の竜哉は、ボクシング部の仲間と女の子をナンパしに街に繰り出した。そこで竜哉は名家の令嬢、英子と出会うのだった。竜哉は高校生らしからぬ遊び人だったが、英子も中々のものだった。 本作を簡単に言い表わせば歪んだ青春の物語である。ただ一方で、セレブリティーな世界のスキャンダラスな日常を描いた作品だとも言える。 本作の登場人物たちは紛れもない不良少年・少女なのだが、社会的な弱者であるが故に野良犬のように彷徨う不良ではない。彼らの家庭は過ぎる程に裕福であり、言ってみれば、本作で描かれている事柄は、何ひとつ不自由ない坊ちゃん嬢ちゃんたちの退屈しのぎの戯れ事である。 こういった様相は当時としては珍しかったのではないかと思う。終戦してまだ10年だという事、更には戦後復興からそのまま高度経済成長へとシフトした事を考えると、一般的には当時の人々は、余裕を楽しむのではなく、我武者らに生きていたのではないかと思う。そして、そもそも楽しむ事よりも律する事を徳としてきた日本人の風潮には極めて異質に映ったのではないかと思う。 ただ、異質な様相だからこそ価値が生まれたのだろう。原作小説がセンセーションを巻き起こしたのも納得出来る。また、価値観が当時から相当様変わりした現代の方が本作を実感出来るのではないとも思う。大袈裟なのかも知れないが、現代の闇を先取りしているようにも感じる。 但し、先取りして現代の世相を表していると感じる一方で、決定的に現代と違う点も見受けられる。それは本作に登場する若者たちに、どこかしら品格を感じる点である。乱れた淫らな物語に品格があるというのは、おかしな話である。ただ、このような物語でさえ品格を感じるという事は、いかに現代社会が根本的に品格を失っているとの証明である事だろう。奇しくも突き付けられた現実だが、これも憂慮すべき現代の問題であるだろう。 私は主人公の竜哉を裕次郎と重ねて本作を観てしまったので、長門が竜哉を演じる事に、どうしても違和感を感じていた。しかも劇中、長門の近くに裕次郎がいて、更には長門が後の俳優・裕次郎っぽい言い回しの演技をするので(何でも裕次郎は太陽族の言葉使いを指導していたらしい)尚更その想いは強くなる。 だが、クライマックスを迎えると、そんな想いは一変する。裕次郎が竜哉を演じていたらどうなったのか分からない。ただ、クライマックスでの感慨が長門の演技から間違いなく導き出されている事を考えると、長門のキャステングは大正解だったと言えるだろう。 ヒロインの英子を南田も良い。若いながらも色気を醸し出す艶やかな美しさは、本作のコンセプトに不可欠である。 憂いのあるラテンな音楽も印象に残る。その音色から桑田佳祐が、自身で初監督をした、本作よりも10年後の湘南を舞台とした映画「稲村ジェーン」で、それまでの桑田の作風とは多少毛色の違う、ラテン系の音を多用したのを思い出した。 随分と時が経ってしまった作品ではあるが、歴史的な価値しか見出せない作品ではない。当時の熱気は、まるで真空パックか冷凍保存でもしていたかのように、抜群の鮮度を保ちながら本作に宿っている。それは演出・構成等の作品の完成度ももちろんだが、作品のテーマが現代でも通じる事も大きいだろう。色褪せる事を知らない、優れた作品であると思う。 |
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★前田有一の超映画批評★ |
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