自分勝手な映画批評
坂道のアポロン 坂道のアポロン
2018 日本 120分
監督/三木孝浩
出演/知念侑李 中川大志 小松菜奈 ディーン・フジオカ
医師として病院に勤務している薫(知念侑李)は入院している子供達にせがまれて「モーニン」をピアノで弾き始める。

言葉なんていらん、音ばぶつければ気持ちは通じる

1966年の長崎を舞台に高校生の友情、恋愛を描いた作品。原作は小玉ユキの漫画であり、本作以前にアニメ化されている。

私は原作漫画は未読なのだが、アニメ版は観ている。普段は積極的にアニメを観ない私なのだが、にわかなジャズファンなのでジャズを扱った作品だという事に興味が湧いてアニメ「坂道のアポロン」は観たいと思った。

アニメ「坂道のアポロン」は観て良かったと思える作品だった。だから、実写版となる本作にも期待をした。結論を先に述べると本作は私の期待どおりの作品だった。





1966年、横須賀から佐世保の高校に親の事情で転校してきた薫。転校初日、新しいクラスメイト達は薫の噂話をし、薫に冷たい視線を送っていた。そんな状況に気分が悪くなってしまう薫。その時「昼休みに校内を案内するように仰せつかりました」とクラス委員の律子が薫に声を掛けた。律子の可愛さに、一瞬にして心を奪われる薫。しかし、やはりクラスメイトの視線が気になり、吐き気を催してしまい、慌てて屋上へと駆け上がった。すぐにでも屋上に出たい薫だったが、屋上への入り口の扉は白いシーツを掛けられた物体で遮られていた。薫がシーツをめくると、いくつも顔に傷がある男子生徒が眠っていた。男子生徒は目をゆっくりと開きながら「ああ、迎えに来て下さったとですか」といって薫の手を握った。





本作は私の期待どおりの作品だったと前述したが、その言葉のとおり、期待以上でも以下でもなかった。そう言うとネガティブに聞こえるのかも知れないが、そうではない。期待したとおり、アニメと同じ世界観が広がっていると私には感じたのだ。

その要因はキャストだ。特に物語の中心に位置する薫と千太郎を演じた知念侑李と中川大志はアニメのイメージに沿っていて、これ以上ない、抜群のキャスティングだったと思う。無論、単にキャスティングの妙という事だけではなく、彼らの演技も貢献しているのだが、既存のイメージに無理矢理合わせるのではなく、役作りをし、そこから演技を紡ぎ出しているように見えるので変な違和感はなく、それ故に作品に没頭出来た。

もう1人の重要なキャラクター、ヒロインの律子は私の持つアニメのイメージとは少し違った。しかし、演じる小松菜奈が本作で示す儚さを漂わせる透明感は本作のムードの構築に良い影響を及ぼしているので、小松のキャスティングで正解だったと感じる。

アニメのイメージと大きく異なっていたのは中村梅雀だ。但し、個性を前面に押し出して作品の世界観を邪魔するような事はしていないし、中村から滲み出る温かみは隠し味として作品をまろやかにしているので、これまた、中村で良かったのではないかと感じている。

物語の舞台は1966年に設定されている。何故、時代を遡る必要があったのか。私が勝手に考え、出した答えは2つある。1つは物語が上手く収まるから。本作は優しさに満ち溢れている。それを、もし現代で繰り広げたら、絵空事のおとぎ話になってしまったのではないだろうか。私は1966年を知らない世代なので、もしかすると1966年でも、ありえない話なのかも知れない。しかし、当時を知らない人には昔はそんな時代だったのだと、すんなり受け止められる効果があるように思える。

そして、もう1つはジャズを大々的にフィーチャーしている点だ。1966年は、すでにエルヴィス・プレスリーもビートルズも世の中に存在していて、ビートルズが来日して旋風を巻き起こした年であり、日本でもグループサウンズが産声をあげていた頃。なので、どれだけジャズの影響力があったのかは分からないのだが、少なくとも現代よりも身近だったのではないかと想像する。ちなみにタモリがジャズに造詣が深く、大学時代にモダン・ジャズ研究会に在籍していた事は知られているが、タモリが早稲田大学に入学したのは1965年の事だ。

そんな本作のハイライトとなるのが、文化祭での薫と千太郎のジャズセッションだ。このセッションシーンが存在するだけで、本作には価値があると言っても過言ではないと私は言いたい。と同時に、このセッションシーンを描く為に「坂道のアポロン」にはジャズが必要だったのではないかと思ってしまった。

と言うのは、このセッションシーンだけで1つのドラマになっているからであり、そのドラマとジャズ特有の緩急が見事なまでにマッチしているからだ。観衆を含めた演出も素晴らしく、ライブ感があり、迫力もあって、セッションを通じた2人のドラマには台詞がないにもかかわらず絶対的な説得力がある。

知念も中川も吹き替えなし、自分で演奏しているらしい。練習期間は10ヶ月にも及んだそうだ。だが、その点に私は申し訳ないが興味はない。吹き替えであろうと、ちゃんと演奏しているように見えれば、私としては問題ない。

しかし、役作りの一環だと考えれば、有意義な事だと思う。薫も千太郎もジャズを演奏する事が、かなりのウエートを占めているキャラクターだ。だから、楽器演奏の習得は、仮に作中で披露しなかったとしても、楽器演奏以外の演技で役立ったのではないだろうか。もちろん、至極のセッションシーンに役立ったのは言うまでもない。

本作の実質的なテーマ曲となっている「モーニン」。ジャズに不慣れな人でも聞いた事があるだろう、キャッチーなイントロが印象に残る名曲だが、そのイントロはゴスペルにインスパイアされて作られたらしい。キリスト教が物語の構成要素の1つになっている事を踏まえると「モーニン」は選ばれるべくして選ばれたテーマ曲だったのだと感心したのだが、よくよく考えてみるとゴスペルは基本的にキリスト教プロテスタントの音楽、本作に登場するのはキリスト教でもカトリックなので「モーニン」が選ばれた事に深い意味はないようだ。

ちなみに「モーニン」のオリジナルはアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズで、発表されたのは1958年。ドラム、ピアノ、トランペット、テナーサックス、ベースのクインテット編成だった。作曲したのはザ・ジャズ・メッセンジャーズのピアニスト、ボビー・ティモンズなのだが、「モーニン」のイントロがゴスペル由来というのはティモンズが牧師の息子だという事に関係しているようだ。そのティモンズの1960年発表のリーダーアルバム「ジス・ヒア」では本作での編成に近いピアノ、ドラム、ベースのトリオ編成での「モーニン」が収められている。

変わり種なのは、日本の双子デュオ、ザ・ピーナッツがカバーした「モーニン」だ。ザ・ピーナッツなので「モーニン」は歌唱曲となっているのだが、サウンドも大幅にアレンジされていて往年のモータウンっぽい楽曲に変貌している。なので、かなり印象は違うのだが、疾走感が小気味良く、これはこれで名曲だと言える。


>>HOME
>>閉じる






















★前田有一の超映画批評★