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みんな本気で何とかしたいと思ってる 原作は佐藤多佳子の小説。落語教室を開く落語家を中心とした人間模様を描いた作品。 「親は子に育てられる」なんて言うが、これを先生と生徒、先輩と後輩等といった間柄に置き換える事も可能であろう。そしてそれは「立場が人を育てる」といった意味と重なる部分もあるだろう。少なからず本作は、そんな言葉が当てはまる作品ではないかと思う。 主人公の今昔亭三つ葉は、まだ真打には達していない、二つ目と呼ばれる格付けにいる落語家。彼は、ひょんな事から落語教室を開く事となり、訳ありの3人の生徒を迎える事となる。しかし、まだまだ半人前な三つ葉は、本来ならば人に教えられる立場ではない。 ちょっと本作の内容から逸れた言及になるのかも知れないが、年齢を重ねれば、経験が積まれ、技術の習得・向上があり、人格も養われて行くのが、真っ当な成長の在り方であろう。その理念が制度化されているのが年功序列なのではないかと思う。 もちろん、そういった意識を持ちながら、歩みを実感し、成長を自覚しながら日々精進出来れば良いのだが、中々そうは行かないのが現実なのではないかと思う。だからこそ、ある意味、年功序列が形骸化されてしまっている由々しい現状があるのではないかと思う。 成長していない、自信がないからといっても時は待ってはくれない。得てして人は「自分は人に教えられる立場ではない」という訳にもいかない事態に遭遇するであろう。 ちょっとしたアドバイスならまだしも、人に教えるという行為は、本来ならば自らが会得していなければ為せる業ではない。ただ、人に教える事により、気付き、学ぶ事もある。そして生徒に教わる事もある。 そもそも、人に教えられると胸を張って言える立場、すなわち、物事の極みに到達する事は、決して容易ではないだろう。もしかすると、一生掛かっても到達出来ないのかも知れない。だとすれば、立場に関係なく、自分に驕る事なく、常日頃、物事に真摯に取り組み、いつでも学べる用意をしておくべきなのであろう。それこそが本作が掲げたメッセージであるように思う。 本作は、教える側の立場からだけ描かれている訳ではない。教わる側の人々のキャラクターがしっかりと描かれている事で作品に広がりを与えている。 それぞれに切実で深刻な悩みを抱える生徒たち。現状を打破したい彼らは、広い意味で学ぶ事に貪欲である。そんな彼らは、三つ葉に頼りなさを感じつつ、紆余曲折ありつつも、自分を克服する唯一の拠り所として三つ葉を求めている。クールでチグハグしているように見える関係性なのでコテコテとはいかないものの、紛れもない温かい人情劇が本作では繰り広げられている。 主人公の三つ葉を演じる国分太一は、落語家らしい、下町人らしい粋な振る舞いをこなそうとするのだが、その域に達しているとは言い難い。ただ、それは、未熟で半端な三つ葉の立場と、そこに抱える悩みを上手く表現していると言えるだろう。逆に落語を習う少年、村林を演じる森永悠希は、幼いながらも実に達者で、完璧だと言って良いだろう。但し、完璧がゆえの幼心の寂しさを感じさせる。 しかめっ面の香里奈、ぶっきら棒な松重豊も良い。 |
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