自分勝手な映画批評
レスラー レスラー
2008 アメリカ 115分
監督/ダーレン・アロノフスキー
出演/ミッキー・ローク マリサ・トメイ エヴァン・レイチェル・ウッド
かつて一世を風靡した人気プロレスラーのランディ(ミッキー・ローク)は、20年後の現在、試合を終えて憔悴しきったロッカールームで、僅かながらのギャラを受け取っていた。

これがオレの生きる道

1980年代に人気を博したプロレスラーの現在の姿を描いた作品。

本作はミッキー・ロークの復活作、あるいは復帰作などと言われる作品だが、私はそうは思わない。確かに、主演作はなくなったが、それでも彼は、脇役で出演する作品で、彼らしい特有の存在感を輝かせていたように思う。言っちゃ悪いが、ある意味、主役というのは、お飾り的な要素も多分に含んでいると思うので、必ずしも、その技量と立場が等しく結ばれるとは限らないのではないかと思う。

だが彼自身は、世間の論調に同調するような発言をしている。経済的な困窮もあったと伝えられているが、それにしても、その発言を私は少し寂しく感じた。

しかしながら、私の見解とは異なり、矛盾も生じるのだが、本作の魅力を増大させたのは、本作の内容とミッキー・ロークのキャリアがオーバーラップするからであろう。

本作は場末の大人の物語だ。かつては絶大なる人気を博し、マディソン・スクエア・ガーデンなる大舞台にも立った事があるミッキー・ローク演じるプロレスラーのランディは、現在では、倉庫みたいな所で僅かな観客の前で試合を行っている。しかも、プロレスだけでは生計が立たず、スーパーでアルバイトをしている。

加えてランディは、肉体的にも限界を超えたボロボロの状態である。本作にはプロレス界の裏側も描かれている。それが真実か否かは別問題として置いておいたとしても、プロレスラーが危険な職業である事は間違いないだろう。奇しくも本作の日本公開と同時期に、プロレスラーの三沢光晴選手が試合中の事故で亡くなっている。

だが、いくら過酷な職場であったとしても、ランディにとってプロレスが生きる証しなのである。確かに不器用な男なのだろう。ランディは、器用さと引き換えに自分の人生を得た。しかし同時に退路を失った。ランディは、衰えてもなお、生きている実感を求め続けている。その人生が幸せなのかは、自分で評価するしかないだろう。

ミッキー・ロークは、青白いナルシストには思わないが、その身なりや所作から察するに、かなりの美意識を持った人物、あるいは、少なくとも俳優なのではないかと思う。一方、肉体が武器のプロレスラーは、ある種、究極の美意識の固まりだと言えるだろう。

しかし、その両者の美意識が本作では、上手く作用をしていない。本作で描かれるプロレスラーの美意識はミッキー・ロークの美意識とは相反しているようだ。ただ、これが面白い。独自の美意識を持つミッキー・ロークが、自分とは違う美意識を持つキャラクターを演じる事により、自らのキャリアで育んだ特徴を、自虐的なパロディーとして用いているようにも感じるのである。

また、演技にも注目したい。それこそ、一躍トップスターに躍り出た頃の彼の演技は、自分に酔いしれるかのように、他を寄せつけない濃さを醸し出していた。しかし、本作は違う。プロレスラーのランディは、クリーンなスポーツマンらしく、体格は良いが気は優しい人物。それを角が取れた、大らかな演技で表現している。

彼の演技の変化は本作に始まった事ではない。だが、彼の若い頃を持ち出し、本作を彼のキャリアとシンクロさせて捉えるのならば、若い頃の彼の作品を観て、演技を比較するのも有意義であろう。

あらゆる面でミッキー・ロークに注目が集まる本作だが、見どころは彼ばかりではない。ヒロインを演じるマリサ・トメイが実に素晴らしいので、本作のクオリティーが高く保たれているのだと思う。彼女が演じる、色っぽくも可愛らしい、しかし年増の哀愁も漂わせる強い大人の女性は、大層魅力的である。

エンドロールでのブルース・スプリングスティーンの歌声が、ホロ苦く胸に染みる。


>>HOME
>>閉じる



★前田有一の超映画批評★

おすすめ映画情報-シネマメモ