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とりあえずTM聞きながらセルフコントロールしている 女性にモテない草食系男子の恋愛事情を描いた作品。原作は久保ミツロウの漫画。2010年に放映されていたテレビドラマの映画化。本作はテレビドラマの1年後を舞台とした、原作の漫画にはない、新たに書き下ろされた物語である。 人生にモテ期が3度あるという話は良く聞く。その説を何の気なしにずっと受け入れていたのだが、ちょっと気になって調べてみたら、根拠のポイントは3度という回数にあるらしい。 2度だと2つを比較して優劣をつけ、よりモテた方のみをモテ期と認識してしまうらしい。4度以上だと数が多すぎて、それぞれの時期の記憶が薄れてしまうらしい。つまり3度が一番周期を実感出来るという訳だ。 からくりを知ってしまえば何て事ない俗説だと分かってしまう。だがそれでも、あえて俗説に乗っかるのも面白いだろう。 あくまでも3度を意識して、過去のそれぞれのモテ期を振り返り懐かしむのも良し、また、これから訪れるであろうモテ期に期待を膨らませるなんてのも良し。すごく細やかではあるのだが、そんな事も人生の楽しみになる事だろう。少なくとも酒の肴ぐらいにはなる筈だ。 人生初めてのモテ期が訪れたのだが、そのすべてを逸してから1年、藤本幸世はニュースサイト「ナタリー」でライターとして働き始めた。ライターの仕事に今までにない充実感を感じていた幸世。だが、幸世に再びモテ期が訪れる事はなく、恋愛観は屈折の一途を辿っていた。ある日、仕事でミスをして叱責された幸世は、その愚痴をツイッターで吐露する。すると見知らぬ人からのリプライが入った。それは幸世にとっての初めてのリプライ。どうやら、その人は編集者らしい。その日以来、互いに気が合って、ツイッター上で仕事の事を相談したり励まし合ったりしていた2人は、2人で飲む事になった。ツイッターのアイコンから幸世は、その人の事をずっと男だと思っていたのだが、待ち合わせ場所に現れたのは、松尾みゆきという若くて可愛い女だった。 本作、及び本作の礎となるテレビドラマは正真正銘、真っ向勝負の青春物語である。但し、異色な青春物語であるのは確かだろう。 その理由の1つは、主人公が三十路男だからである。本当なら青春する年齢ではないだろう。だが、成人して実社会を生き、現実を知っている年齢だからこそ足元が確かな、価値ある生身の青春が描かれていると思う。 もう1つの理由はサブカルチャー(以降サブカル)な世界を舞台にしている点である。サブカルな世界が青春を描くのに相応しくないなどと言うつもりはない。ただ、青春から連想する清々しいイメージは、サブカルの本質自体からは得る事は難しいのではないかと思う。 この清々しさとは、スポーツからは得られる感動とある意味で共通していると思う。だから、青春を描く作品はスポーツをベースにしたものが多いのだと思う。但し、もちろんだがスポーツだけが青春を語る資格がある訳ではない。スポーツではない青春も、ごまんとある筈だ。 サブカルを通じて青春を語るのは確かにユニークだ。だが、前述の年齢同様、あえて似つかわしくない舞台を設定したからこそ、生身の青春が映し出されているように感じる。 そのサブカル色が前面に打ち出されているのが「モテキ」の大きな特色だ。メインストリームからは若干はずれているが光り輝くアイテム、あるいはメインストリームからはずれているからこそ心がくすぐられるアイテムが四方八方にちりばめられている。こういったアイテムをセレクトするセンスは抜群であり、このセンスこそが「モテキ」のキモではないかと思う。 抜群のセンスはキャスティングにも表れている。何も、キャスティングされている俳優がメインストリームな俳優ではないと言いたい訳ではない。ただ、単なる人気者ではなく、実力も独特な個性も兼ね備えた通好みのキャストが顔を揃えている。 テレビドラマの野波麻帆、満島ひかり、松本莉緒、菊地凛子や、本作の麻生久美子、仲里依紗、真木よう子といったヒロインたちは、華やかな輝きを放つ一方で年齢に似合わない、いぶし銀のような輝きもどこかで併せ持つ女優ではないかと思う。百花繚乱する若手女優の中でのこのキャスティングは、中々の妙を感じさせる。 男性陣のキャスティングも、そういったセンスに準じていると言えるだろう。強い個性を持ちながらも決して自己主張が暑苦しくないテレビドラマの新井浩文や、テレビドラマと本作の両方に出演しているリリー・フランキーのキャスティングは上手いところを押さえていると思う。 キャスティングで特筆したいのは、やはり主人公の幸世を演じた森山未來だ。森山の真摯に役柄に取り組む姿勢は本作でも健在で、しっかりと幸世の中に魂を吹き込んでいる。基礎部分でかなりのレベルまで達している「モテキ」なのだが、森山が座長を務める事で、それらが効果的に機能したと言って間違いないだろう。 そんな「モテキ」の中で唯一異質に感じるのは本作の長澤まさみのキャスティングだ。長澤はメインストリーム中のメインストリームな女優。なので本作が、本来なら長澤がいるべき場所ではないように感じるし、また、並べられたキャストの名前だけ見れば明らかに浮いていると思う。 但し、長澤は見事に対応し、そして順応していると思う。それまでのイメージから脱却したとするのは言い過ぎだろうが、それでも新しい一面を魅力的に披露していると言えるだろう。 そして忘れてならないのは森山と長澤は、日本中を席巻した「セカチュー」こと2004年公開の映画「世界の中心で、愛をさけぶ」のゴールデンカップルだという事だ。 7年の歳月を経て本作で再会した2人。ただ、あれだけ世間を熱狂させた2人だが、率直に言ってあの頃の鮮度が保たれているかと言えば、いささか疑問である。2人が悪いのではない。時の移ろいが残念ながらそうさせてしまうのだ。また、「セカチュー」の2人が、本作のような毛色のまったく違う作品で再会した事も少なからず影響しているだろう。 ただ、私は本作での共演が悪いとは思わない。むしろ好意的に受け止めている。高校生を演じ、無垢な純愛を演じた2人が、こういったカタチで再会した事は、却って感慨深く感じる。 また、あくまでも私見だが、長澤のキャスティングはゴールデンカップル復活という狙いがあったのではないかと思う。サブカルなアイテムをふんだんに起用する「モテキ」は遊び心のある作品だ。森山と長澤を共演させたのは「セカチュー」を踏まえての遊び心ではないかと思う。 テレビドラマと本作の違いとして私が感じた点は、テレビドラマが独白のように一人称で語られる物語だったのに対し、本作は、その名残りはありつつも、一人称な語り口が幾分かは薄まっている事だ。それはテレビドラマと映画という媒体の違いの所為なのかも知れない。ただ、テレビドラマの物語から1年経った幸世の成長だと受け止める事も可能であるだろう。 そういった意味では、本作は単品でも楽しめる作品だと思うのだが、テレビドラマから見始めた方が、より楽しめる作品ではないかと思う。 |
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★前田有一の超映画批評★ |
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