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私、最後の淳ちゃんを失いたくないんです 原作は河原れんの小説。恋人を亡くした女性の苦悩を描いた作品。 世の中には受け入れ難い事がある。受け入れを拒否する事が可能であるのならば、受け入れずに生きて行くのも間違いではないだろう。しかし、どうしても受け入れなければならない事もあるだろう。その場合はどうしたら良いのだろうか? 主人公の泉美は精神病院に通っている。通う理由はオートバイの事故で恋人の淳一を亡くした心の傷を治す為。ただ泉美は、もうひとつ問題を抱えていた。オートバイの事故の際、泉美は淳一の後ろに同乗していた。しかし、事故の記憶が泉美にはなかったのだ。ある日、精神病院で入院患者に絡まれてしまった泉美は、同じく精神病院に通う女性、桐野に助けられた。桐野は弁護士。どうしても事故の記憶を取り戻したい泉美は、桐野が勤める弁護士事務所を訪ねるのだった。 率直に言えば、本作は豊かに彩られた作品ではない。大掛かりなギミックがある訳ではないし、登場人物のキャラクターも案外と画一的である。ただ言い換えれば、掲げたテーマを出来る限り粉飾せずに真正面から取り組んだ真摯な作品だと言えるだろう。 心の傷へを癒す方法は様々であるだろう。忘れる為、あるいは紛らわして平静を保つ為に何か違う事に打ち込む、すなわち外へと求める方法もあるだろう。それとは逆に内側へとベクトルを向け、自分を見つめる方法もあるだろう。もちろん、どちらが良いとか悪いとかいう話ではない。本作の主人公・泉美が選択したのは後者の方法だ。 なので本作はスピリチュアルな世界が描かれている。従って内向的でありプライベートな物語である。だから外的な賑やかしは必要としない。但し、その手法はエンターテインメントとしては物足りないと感じるのかも知れない。本作は、その分を補う術としてミステリー作品の手法を用いている。 本作で特徴的なのは、冒頭から物語がどういった方向に進んで行くのか見極められない事である。下準備として事前に本作のあらましの情報を得ていれば、さほどは問題ないのかも知れないが、そうでなければ暗中模索な状態であるだろう。 ただ、それこそが本作の狙いであるだろう。観る者は、俯瞰で本作を眺めるのではなく、泉美と共に作中をさまよう事となる。これは、まさしくミステリー作品の手法である。そして観る者が泉美と一体化し、泉美の目線で進んで行く一人称の物語であるならば、他の登場人物のキャラクターが画一的であるのも納得が出来る。 そもそも、失われた記憶を取り戻すという物語の本筋自体がミステリーだと言えるだろう。そして、自分の内面で答えを探し出す作業も、ある意味ではミステリーだと呼べるのではないかと思う。 物語の性質、あるいは主旨を考えれば本作をミステリーと称するのは語弊があるのかも知れない。だが、あえて私はミステリーであると言明したい。但し、通常のミステリーとは根本的に異なる。本作は用意された答えを導き出すミステリーではなく、自分自身で答えを作り出さなければならないミステリーなのである。 自らが招いたミステリーは自らで解決しなければならない。それは辛く苦しく残酷な作業なのかも知れない。だが、自身のミステリーを解決する能力は人間には備わっている。苦労して手に入れたミステリーの答えは、新たに踏み出す一歩の糧となる事だろう。 |
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