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贅沢な二流作品 本作の公開時のテレビCMが実に印象的だった。ディック・デイル&ヒズ・デルトーンズのミザルーに乗せて踊るジョン・トラボルタとユマ・サーマンは無茶苦茶スタイリッシュでカッコ良かった。しかし実際の映画は、変則的なオムニバス形式、滅茶苦茶な時系列、ストーリー進行と必ずしも一致しない細部へのこだわり等を鑑みるとスタイリッシュではなくマニアックな作品と言えるであろう。 劇中の台詞に「オートバイ?」との問いに「こいつはチョッパーだよ」と答えるシーンがある。一応説明すると、チョッパーとはオートバイの改造スタイルの一種である。なのでチョッパーはオートバイであることに何ら変わりがないのだが、あえてオートバイではなくチョッパーと言うところにただならぬこだわりを感じさせる。本作はまさにそんな映画だ。 パルプ・フィクションとはパルプ・マガジンと呼ばれる安っぽい雑誌に掲載されている作品のことを指すらしい。そこには低俗な話、くだらない話、大衆小説のようなニュアンスがあるようだ。大きな意味でとらえると二流だとかB級といったニュアンスも含まれると思うのだが、このタイトルは実に的を得ていると思う。 本作のストーリー自体がくだらない話、パルプ・フィクションなのだが、それ以外の面でも、あえて「はずす」姿勢がいかにもパルプ・フィクションであるように私は思える。自分では一流だと思って仕上げたのだが結果として二流なのではなく、あくまでも低俗な二流を狙う姿勢。そこには「はずす」要素がなくてはならない。低俗だとか二流だとかという言葉は不適切かもしれないが、いわゆる王道ではない魅力が本作には満ち溢れている。 その「はずす」要素のひとつは劇中曲だ。新譜ではなく古い曲。しかもまるで音楽マニアが取って置きのレコードを引っ張り出してきたかのような渋めの選曲だ。このセンスが抜群なのである。ナツメロやオールディーズにならない。まるで新譜のような新しい息吹が与えられて新鮮である。しかし、いくら新鮮であっても、新譜ではなく古い曲なのが味噌なのである。 「はずす」要素はキャスティングにも現れている。当時、落ち目であったジョン・トラボルタの起用である。実際、彼は本作でイイ味を出しており、本作がきっかけで再ブレイクもしている。トラボルタの代表作は「サタデー・ナイト・フィーバー」である。そんな彼にダンスシーンを用意するのも憎い演出だ。そしてトラボルタと同世代であるが、彼とは逆に当時登り調子のブルース・ウィリスの起用も組み合わせの面白さである。 本作にはクエンティン・タランティーノの優れた「はずす」センスも含めたマニアックなこだわりが思う存分発揮されている。しかも、このマニアックさは狙いというより彼の好みなのだと感じる。しかし好き勝手なマニアックさがカルトのように閉鎖的にならないのは彼の嗜好が下世話な二流やB級といった大衆娯楽を楚としているからだと私は思う。王道ではなくカルトでもなく、一般的には蔑まれがちなB級へのこだわり。食に例えるならフランス料理でもなく珍味でもなく何よりカップラーメンが好きといった感じではないかと思う。 |
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