自分勝手な映画批評
あさひなぐ あさひなぐ
2017 日本 105分
監督/英勉
出演/西野七瀬 白石麻衣 中村倫也 江口のりこ
「行ってきます」と元気良く言って家を出て、学校へ向かう旭(西野七瀬)。立ち止まり、朝の気持ちの良い空気を目一杯吸い込むのだが、近くに生ごみの袋があった。

いい景色でしょ? 最後まで登り切った人だけが見れるんだよね、これを

薙刀に青春をかける女子高生達の姿を描いた作品。原作は、こざき亜衣の漫画。私は未読。

「あさひなぐ」という作品タイトルを聞くと、どうしても「ちはやふる」を思い浮かべてしまう。平仮名5文字で、すべての母音が同じではないが何となく語感が似ていると感じる。そればかりか、どちらも漫画原作で日本伝統の、しかし、マイナーな競技を題材とし、女子高生が主人公という点も共通している。

但し、作品タイトルの由来は両者では異なる。「ちはやふる」が小倉百人一首の一節であるのに対し、「あさひなぐ」は完全なる造語。私の解釈では「あさひ」は主人公の旭、「なぐ」は薙刀をするをGoogle検索を意味する「ググる」のようにしたのかと思ったら、少し違った。「あさひ」は正解だったが、「なぐ(薙ぐ)」は「横にはらって切り倒す」「刃物を勢いよく横に払って切る」といった、ちゃんとした意味がある日本語だった。ひとつ勉強になった。





二ツ坂高校の体育館では、新1年生を勧誘する為の各部活動の催しが行われていた。薙刀部の時、そのユーモラスな演武に見ていた1年生の旭は思わず笑ってしまう。すると「今笑った1年、手を挙げなさい」と薙刀部の2年生、真春が叫び、体育館のムードが一変した。多くの1年生が笑った筈なのだが、誰も手を挙げない。そこで全員、目をつぶって手を挙げる事になり、旭は素直に手を挙げた。すると、「(顔を)覚えた、今、手を挙げた者は放課後、武道場に来るように」と言われてしまった。放課後、武道場に行った1年生は旭を含めて3人。先輩達は熱烈大歓迎で、とても優しかった。また、その日の朝、痴漢に遭って困っているところを助けてくれた真春への憧れもあり、旭は薙刀部への入部を決めた。練習は楽だと聞いていた薙刀部。しかし、いざ入部してみると違った。





本作の大きな特徴として挙げられるのがアイドルグループ、乃木坂46のメンバーが主要キャストに顔を揃えている事である。アイドル映画はアイドル的な要素がある俳優を主役にした作品も含め、古今東西無数にあり、クオリティーが高い作品も沢山あるので、アイドル映画自体は市民権を得ている筈。但し、同じグループのアイドルが大挙しているとなると話は別になるだろう。

1つのアイドルグループの中から数名を主要キャストにする事の懸念は、作品のクオリティーが上がらないのではないかという事に尽きる。1つのアイドルグループに優れた演技が出来るメンバーが何人もいるものなのだろうか。もし、学芸会のような有様であれば、乃木坂46のファン以外は置いてきぼりになってしまう。だが、そんな懸念は杞憂だった。

例えば、白石麻衣は持ち前のクールビューティーな容姿、ムードを活かしてカリスマ性や強さを誇示しつつ、笑いも提供しているし、伊藤万理華は演じるキャラクターの基本を会得した上で喜怒哀楽を紡ぎ出している。また、生田絵梨花は設定だけに着目すれば嫌な奴でしかないキャラクター、一堂寧々を愛らしさを感じるように変換し、作品の角を丸くし、青春時代の爽やかなムード作りに寄与している。

これには理由があった。アイドルグループが数多く存在する中で他と差別化を図る為、それぞれのアイドルグループは独自のセールスポイントを持っているようだが、乃木坂46の場合は芝居に力を入れてきたとの事。実際、乃木坂46独自、あるいは主体の舞台公演が何度か行われているし、「あさひなぐ」に関しても本作公開以前に舞台版が披露されている。

また、シングル楽曲をリリースする際、シングルの特典として個人PVと称するメンバーそれぞれを主人公としたショートムービーを映画監督や映像ディレクター等、そうそうたるメンツが演出を担当して製作していたという。そして、グループを離れて、単独で舞台やミュージカルに手練れの俳優達に交じって出演しているメンバーもおり、貪欲にオーディションを受けて出演を果たすという事もあるらしい。

このように乃木坂46のメンバーは演技経験が乏しいという訳ではなく、むしろ逆で、環境に恵まれている事もあって、年齢の割には場数を踏んでいる。おそらく、その時々で役や演技への取り組み方を学び、感性を磨き、表現力を養ってきたのだろう。その経験値が、完璧ではないとしても、本作に現れているのではないかと私は思う。

キャスト以外にも大きな特徴はある。それは薙刀を題材にしている事である。薙刀に無知であっても問題はない。作中に説明がある。ちなみに、その説明は要領を得ていて、観る者を惑わせず、とてもスムーズに行われていて、ストーリー進行の妨げになっていない。目立たない点かも知れないが、良い演出、脚本だと感じた。

さて、私が主張したいのは薙刀が武道だという事である。武道の本来の目的は人としての成長。その手段には厳しい鍛錬が用いられる。つまり、己で己を追い詰め、己に打ち勝つ事で成長するという訳である。ただ、このプロセスは現代人の視点では時代遅れに映るのではないだろうか。ややもすると体罰なんて批判を招きかねない。そんな時代遅れのプロセスを本作では堂々と描写している。

そして、時代遅れのプロセスは努力と根性が代名詞で昭和の時代に一世を風靡したスポーツ根性もの、いわゆる、スポ根ものの土台になっている。従って、本作はスポ根ものを21世紀の世の中に蘇らせた作品だと言える。もっとも、時代遅れと称したプロセスは、決して時代遅れではない。メンタルを鍛える為に厳しい練習が必要だと説くトップアスリートは多くいる。なので、温故知新と言って良い作品なのかも知れない。

作中でスポ根色を強くするのが、江口のりこが演じる寿慶。寿慶は尼僧であり、薙刀部の稽古をつける場所は寺なので往年のカンフー映画を彷彿とさせ、ニヤリとする人もいるのではないだろうか。そして、寿慶は尼僧なので江口は剃髪カツラを装着して寿慶を演じている。これが、いかにもコスプレチック。ただ、原作のイメージがあるので仕方ない事だろう。それに、江口の演技は極めて鋭利であり、凄味があるので、コスプレ云々など容易く忘れてしまう。

スポ根ものであるのならば、汗臭い作品になっていると考えるかもしれないが、そうではない。それも本作の特徴だと言える。女性アイドルをキャスティングしている時点で汗臭さは打ち消され、逆に、良い香りが漂ってきそうなものだが、他にも大きな原因がある。熱くなりそうなところを即座に水を差し、消火しているのである。その辺りは、21世紀らしいと言えるだろう。

もっぱら消火活動に勤しんでいるのが、薙刀部の顧問、小林先生を演じる中村倫也である。消火は本作で非常に大きなウエートを占めている。上手く消火出来なければ、背筋が凍る寒さを迎える事になるし、スポ根も中途半端な印象を与えてしまう。だが、中村は見事にやってのけた。中村はコメディー俳優としても通用すると確信した。また、藤谷理子も中村とはタイプは違うが消火活動要員であり、個性的な存在感を示し、作品の癒しとして機能している。

以上のようにアイドル、スポ根、コメディーと雑多な魅力が詰まった作品なので、それぞれの角度から楽しめる作品ではないかと思う。


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