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私たちって行くところがないみたいね 原作は林芙美子。腐れ縁の男女の愛憎劇を描いた作品。 本作を観て咄嗟に思い出したのはJRの前身、国鉄のフルムーン旅行のキャンペーン広告だった。混浴のシーンが当時話題となったこの広告。出演していたのは本作主演の高峰秀子と名字が同じ高峰三枝子。こじつけのような僅かな共通点が頼りの都合の良い解釈なのだが、本作へのオマージュだったのではないかとふと思ってしまった。 第二次世界大戦中の仏印(フランス領インドシナ)に農林省のタイピストとして赴任したゆき子は、その地で働く農林省の技師の富岡と出逢い、恋に落ちる。富岡は日本に妻を残している身であったが、ゆき子には日本に戻ったら妻と別れて一緒になると約束していた。終戦後、日本に引き上げたゆき子は、先に戻っていた富岡を訪ねる。しかし富岡には妻と別れる気はなかった。 純愛には年齢が関係するのだろうか? 例えば、若い男女が困難を乗り越えて一途な愛を貫こうとする姿は美しい純愛だと認められるだろう。しかし、大の大人となれば、そうは言ってられない。「出逢った時が遅すぎた」なんてのはキザな逃げ口上に思えるが、実際は理に適った言葉なのかも知れない。 本作で繰り広げられるドロドロとした愛憎劇は、自らの意志に従順であるが為に引き起こされている。それを純愛と取るか醜愛と取るかは観る者次第。但し、世間一般の常識からは、はみ出していると言わざるを得ないだろう。 本作で描かれている男女の関係は不道徳であり、淫らだとも言えるだろう。ただ、もしも現代の作品であるならば、もっと露骨に過激さをアピールしていたのではないかと思う。そう至らなかったのは製作された時代の所為だと考えられる。本作の本質からは離れたところではあるのだが、その辺りも私には興味深く感じられた。 本作の描写が現代の作品ほど過激でないのは、おそらく本作制作当時、過激な描写が許されなかった、あるいは過激な描写の概念が現代ほどまで達していなかったからであろう。本作は現代の作品ほど描写が過激でない分、余韻を残し、観る者の想像力に働きかける手法を用いている。その手法は過激さを補うだけに止まらず、味わい深い情緒も生み出していると言えるだろう。 また、描かれている時代の風潮も本作には大きく関係している。本作が製作された時代の社会、少なくとも本作で描かれている世界は現代よりもモラルの規準が高い。その事で物語が破綻を免れているといっても良いのだと思う。 そういった時代を感じる面から私が受け取ったのは、作品内容と相反するような気品である。時の経過と共に物事は確実に進化している。だが、その道程で置き忘れてしまった大切なモノもあるだろう。その1つであろう気品を背徳な物語の本作から感じるのは実に面白い。 主人公のゆき子を演じた高峰秀子が素晴らしい。芯の強さが裏打ちされた、妖艶な輝きは圧倒的。大女優・高峰秀子の魅力と絶世の名声の理由を理解するのは本作だけで十分なのかも知れない。 対する森雅之も良い。派手に振る舞う事なく、さりげなく要所を押さえる演技は確かな技量を感じさせる。彼の安定した演技が土壌にあるからこそ本作が成立していると言っても過言ではないだろう。 |
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