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独身貴族が辿り着いた真理 原作はフィリップ・ロスの小説「ダイング・アニマル」。独身貴族の名に相応しい初老の大学教授と、彼の教え子である若い女性との恋愛を描いた作品。 設定だけ見れば、随分と官能的ではあるが、本作は必ずしもそうとは限らない。その理由としては、大人としての社会的な立場を蔑ろにせず、しっかりと基調にしているからである。本作に、反社会的な不徳を擁する、本能むき出しの破廉恥なエロチシズムは描かれてはいない。官能的な描写もあるのだが、それはあくまでも大人のラブストーリーを構成するのに必要な要素であると言えるだろう。 この社会性を保つ姿勢は本作にとって、とても重要であると私は思う。この基本がなければ、本作で描かれている、大の大人の男が既存の概念と対峙し、迷い葛藤する姿に説得力がなくなるのではないかと思う。 人間、ある程度の年齢に達すれば、自分自身が確立される事だろう。それを、年齢を重ねるごとに保守的になって行くと捉える事も出来るのかも知れない。いくつになっても好奇心旺盛で行動力がある人もいるだろう。だが、それも、その人の確立した人格や生き方なのであり、それをある年齢に達してから能動的に変える事は、やはり難しいのではないかと思う。 結婚に失敗している初老の大学教授デヴィッドは、自分には結婚が向いていないと悟り、自由な恋愛を手広く謳歌している。そんなデヴィッドの前に現れた、自分とは随分と年齢の離れた美女コンスエラ。デヴィッドはコンスエラの美しさに目を奪われ、惹かれて行く。デヴィッドは、いつも通りの恋愛を楽しもうとしたのだが、コンスエラの魅力はそれを許さず、我を忘れてのめり込んで行く。しかしデヴィッドは、そこで躊躇してしまう。 デヴィッドは一見、自由を重んじる生き方をしているように見えるが、実際は自由を満喫する為に、自らに不自由なルールを課している。デヴィッドがコンスエラと出会えたのは、彼の自由主義の賜物であるだろう。だがしかし、コンスエラに落ちて行く自分を踏み止まらせるのは、それが自分の主義に反していると感じるからであろう。それを一般的には無責任と言い表わすのかも知れない。愛を探究したい欲望と、確立した自分を破壊する恐怖。その板挟みがデヴィッドを苦しめる。 「四十にして惑わず」なんて言うが、本作で描かれているのは、その言葉とは真逆の、言わば、世間一般の固定観念から逸脱した恋愛であり、感情なのかも知れない。だが、若者を主人公にした恋愛物語では描けない感情の起伏が本作には詰まってる。大人の男の、ある意味、分不相応で、通常の大人の尺度では計れない恋愛、だが大人ならではの恋愛は、グラマラスな人間味を感じさせるのではないかと思う。 デヴィッドを演じるベン・キングスレーが素晴らしい。これがガンジーを演じていた人とは到底思えない、ある種、対極なキャラクターを見事に演じている。老齢とハゲ頭の風貌は、本来ならばカッコ良さとは無縁である筈なのだが、実に艶っぽい大人の色気を感じさせる。「ちょいワルおやじ」というフレーズの有効期限がいつまであるか分からないが、まさにそのスタイルの究極と言って良いだろう。 ヒロインのコンスエラを演じるペネロペ・クルスも実に悩ましく魅力的だ。彼女の美しさ、そして確固たる存在感が本作に不可欠なのはもちろんだが、彼女がヒロインである事で、不思議とベン・キングスレーの魅力を一段と引き立たたせる効果を与えているように思える。 ユニークに感じたのは、デニス・ホッパーの役柄である。彼が演じるジョージはデヴィッドの相談相手であり指南役である。まずデニス・ホッパーが前のめりな親友を、なだめる役というのが面白い。 ただ、ジョージもデヴィッドと同じく自由恋愛主義者である。但し、それらしい場面は、ほんの僅かしか存在しない。だが、そのような場面を用いなくても、ジョージの豊かな背景は、演じるデニス・ホッパーの個人のキャラクターを考えれば観る者の想像力で解決出来る。この辺りは上手い演出だと思う。 エレジーという作品タイトルに見合った哀愁を感じさせる内容であるのだが、全体から醸し出すスマートな雰囲気が、悲観一辺倒にはさせずに、スタイリッシュな大人なムードを感じさせる作品に仕上げている。 |
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