自分勝手な映画批評
東京流れ者 東京流れ者
1966 日本 84分
監督/鈴木清順
出演/渡哲也 松原智恵子 川地民夫 二谷英明
波止場で大塚組の男たちにけしかけられる哲也(渡哲也)。しかし、ヤクザから足を洗った哲也は頑として誘いにはのらず、無抵抗のまま叩きのめされた。

頼むから俺を怒らせないでくれ

足を洗ったにもかかわらず、ヤクザの世界に翻弄され続ける若者の生き様を描いた作品。

本作は、渡哲也のヒット曲「東京流れ者」をモチーフに製作された作品、つまり、楽曲ありきの作品である。現代では、こういった製作経緯は珍しいと思うのだが、当時は、他にも例はあるので、ごく当たり前の製作経緯だったのだと思う。劇中、「東京流れ者」が何度も繰り返し流れるので、楽曲を知らなかった人でも本作を機に覚えてしまう事だろう。

ヤクザ組織の倉田組の親分、倉田は倉田組を解散した。本来なら子分の哲也も解散に伴い解放されるべきなのだが、哲也は倉田を慕い、倉田の元を離れなかった。倉田はビルを購入していたのだが、その際に吉井なる人物から800万円借りていた。その返済日が迫っていたのだが、倉田は300万円しか都合が出来ていなかった。そこで哲也は吉井に会いに行き、今回は300万円だけ返済し、残りは毎月100万円づつ返済する事で話をつけるのだった。一方、倉田を常日頃から疎ましく思っている大塚組というヤクザ組織があった。内通している吉井の秘書から借金返済の事情を知った大塚組は、そこに付け込み、倉田を追い詰めようとしていた。

とてもユニークな作品である。前述どおり、モチーフは楽曲「東京流れ者」。まずは、その楽曲の言葉少なく、且つ抽象的な歌詞の世界に背景を作って意味を持たせ、ストーリーにまで発展させた手腕に感心させられるのだが、そのストーリーとは、実に演歌チックなのである。演歌チックが問題な訳ではない。ただ、ストーリーが演歌チックであるならば、その意向に則した演出をするのが筋であるだろう。しかし監督の鈴木清順は、ストーリーに額面どおりの演出を施さなかったのである。

清順は、作品全般にモダンな味付けをした。その味付けはシックでヒップなリズムを作品にもたらし、演歌調な物語を都会風に様変わりさせた。これだけでも十分満足だ。だた、これだけでは当時の他の作品でも同様なものもあった。しかし、この先が本作の特異なところ。清順はモダンな味付けにプラスして幻想的な味付けもまぶしたのである。

その幻想的な有り様は「8 1/2」等でフェデリコ・フェリーニが描いた世界に通じるところがあるように感じる。但し、根本的に違う点がある。フェリーニは、あくまでも幻想は幻想として扱い、幻想を幻想世界に閉じ込めている。つまり現実と幻想とが分離された構造になっているのだ。なのでストーリーは現実と幻想を行き来しなければならず、それ故、場合によっては難解に感じてしまう事もあった。対して本作の清順は、幻想を劇中の現実世界の中にすり込ませ、馴染ませている。だから本作を難解に感じる事はない。

幻想性が最も顕著なのは、主としてクライマックスの舞台となるクラブと思しき場所でのシーンである。閉息感の微塵もない、開放的な広いフロアにピアノやテーブル、そしてオブジェのような柱や階段が配置されている、すべて白一色に統一されて、時として気紛れなライティングで色を変える不思議な空間は、まるで歌番組のセットのようである。

そこで映画の1シーンとしてドラマを繰り広げるのだから正気の沙汰ではない。だが、そこで迎えるクライマックスが身震いする程秀逸なのである。映画史に残る、非常に強烈な印象を与える名シーンではないかと思う。

主演の渡哲也が良い。若き日の姿は実にスタイリッシュで、アート性を有する作品に良く映える。そして何より、義理・人情を重んじる男気溢れる主人公・哲也のキャラクターは渡のイメージにピッタリである。若さ故の多少の角はあるものの今も昔も渡が渡であるのは、やっぱり嬉しい。


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