自分勝手な映画批評
東京オリンピック 東京オリンピック
1965 日本 170分
監督/市川崑

ドキュメンタリーをアートにした市川崑の傑作

1964(昭和39)年に東京で開催された第18回夏季オリンピックの模様を描いた記録映画。公開時に「記録性に欠ける」ということで「記録か芸術か」という論争が起きたらしいのだが、確かにそういう意見も出てくるような内容である。本作は競技結果を羅列するようなダイジェストではない。それは市川崑を監督にしたのだから仕方ないと言えるだろうし、さすが市川崑監督作品とも言えるだろう。本作にはドキュメンタリーでありながら、まるでシナリオがあるかのような統一感を感じさせる。

本作で特徴的なのは、選手の内面を映そうという意図が伺える点である。その最たるがクローズアップの多用だ。通常、スポーツの一番の見どころは選手のパフォーマンスが生み出す競技や試合の内容である。よって選手のフォーム、相手との差や駆け引きがわかるような距離や位置関係が重要なのであって、ある程度引きの映像で全体を捉えることが必要である。

しかし本作では、御法度とも言えるクローズアップで選手の表情や体の一部を大きく捉えている。しかも上下左右することが常の選手の動きをアップで捉えようとする為、カメラはブレて不安定である。しかし、この不安定さは迫力と臨場感を生み、アップで捉えた表情は職業俳優以上の説得力がある。

当たり前だが、オリンピックはフィクションではない。制作者側で「こう撮りたい」といった作品のコンセプトがあったとしても、被写体が思ったとおりに演じてくれる訳ではない。おそらく多くのカメラを用いて、多くのフィルムを費やしたのであろう。その中からピックアップされた映像なのだろう。制作者の多大な労力が感じられる作品である。

忘れてならないのが時代背景である。東京オリンピックが開催されたのは終戦から20年ほどしか経っていない昭和39年。本大会が戦後復興のシンボルとなっていたと言っても過言ではない。実際、東海道新幹線をはじめ多くの施設・設備が本大会に合わせて建設・整備された。現在では、オリンピックといえば4年に1度のスポーツの大きな大会という認識しかないのかもしれないが、少なくとも当時の日本にとっては、本大会はそれ以上の大きな意味を持ち合わせていたのである。

また、作中にも触れているが、現在ほどグローバルな世の中ではなかった時代、多くの外国人が日本に訪れることも稀であっただろう。今以上に異国民・異文化の交流の意義は大きかったであろうし、その意味でも、今以上に平和の祭典という意味が強かったように思える。

本作には選手のみならず観客や運営スタッフも数多く収められている。そう考えると、公開時の「記録性に欠ける」という意見も今となってみれば、日本の歴史的な出来事の熱気の記憶を記録した作品と言えるだろう。

さらには、オリンピック大会、あるいはスポーツの歴史的な資料としても大いに意味を成していると思う。現在のメジャーな陸上競技大会ではお目にかかれない土のトラック。走り高跳び・棒高跳びのマットは現代では考えられない形状をしている。照明不足で薄暗い夜の競技場や室内運動場はドラマチックさを演出しているようにも思える。スポットライトのように照らされてできた選手の陰影はまるで舞台芸術を見ているようである。

前述の「記録か芸術か」という論争で用いられた「芸術」という言葉の意味は単に「記録」の反対語として用いられたのかもしれない。しかし本作はドキュメンタリーでありながら随分とアートな雰囲気も兼ね備えている。それは市川崑のセンスと手腕なのだと思う。競技をつなぎ合わせる編集の仕方は、やはりエンターテイメントの監督らしいと言えよう。また、劇中曲もドラマチックで高揚感をサポートしている。

付け加えるなら、亀倉雄策が手掛けた本作ではなく東京オリンピック自体のポスターが実にアーティスティックで素晴らしかった。本作とポスターがどういう関係性があるのか、連動しているのか・していないのかはわからないのだが、結果として作風に共通性を感じられるのことが面白く感じた。


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