自分勝手な映画批評
色即ぜねれいしょん 色即ぜねれいしょん
2009 日本 114分
監督/田口トモロヲ
出演/渡辺大知 森岡龍 森田直幸 臼田あさ美
病室で医師や家族に見守られて最後の時を迎えようとしていた恭子(石橋杏奈)。そこに乾(渡辺大知)が現れて恭子の為に歌い始めた。

人生は出会って別れて、ただそれの繰り返し

原作はみうらじゅんの小説。1970年代を舞台に、うだつが上がらない男子高校生の成長する姿を描いた作品。

想像力とは何歳になっても持ち続けているものであろう。ただ、未来への余白が大きい若い時代の方が、相対的に見て豊かであるのは間違いないだろう。

舞台は1974年の京都。主人公は、ヤンキーと体育会系が幅を利かせている学校で、肩身の狭い想いをしている高校一年生の男子。そんな思春期男子の想像力を掻き立てる源は、未来の自分の姿でもあるのだが、その年代の宿命とも言える異性に対する興味。彼は仲間と一緒に、巷で耳にするフリーセックスの快楽を求めて、夏休みに、それがあると信じる隠岐島へと旅に出かける。

思春期の青春を描く上では、比較的オーソドックスな設定であると言えるだろう。だが本作は、その設定を基調としながらも、少し違った感覚を呼び起こさせる。

以前、興味深い記事を目にした事がある。それは、現代の子は注意されると自分が批判されていると思ってしまうといった旨の内容だった。それが現代の子すべてに当てはまる訳ではないだろう。また、昔の子だって批判されたと思う子もいただろう。ただ、現代では、相手を思うからこそ叱咤するという事が少なくなっているような実感はある。

本作は、そのようなメッセージを目一杯に掲げた暑苦しい作品ではない。だが、さりげなくではあるが随所に、現代では失われた美徳を感じさせる。

主人公の少年は、通信教育で空手を習っている設定である。この設定はブルース・リーブームが席巻していた当時の世情を感じさせる効果もあるのだが、何より(別段、通信教育自体は珍しくはないのだが)少年の内向的な性格を上手く表現しているように思う。ただこれは、深読みをするならば、個人主義を重んじる現代に対する批判のようにもとれる。

主人公の少年は、大人たちから様々な教えを蒙り成長して行く。大人といっても決して年齢の離れた世代の人たちではなく、少年よりも少し年上なだけのお兄さんたちである。そんな彼らは、実に含蓄のある言葉で少年の成長を促して行く。

人に意見する事は容易い事ではない。そこには責任、時には危険が伴うからだ。だが、そういった行為の積み重ねで人が人を作り、コミュニティーが構築されてきた面もあるのだと思う。批判されていると感じるのは子供の所為だけなのだろうか? 

進化や発展は、人々に多くの幸せをもたらすだろう。だが、その一方で、大事なものを忘れ、知らずに排除してしまっているのかも知れない。言い換えれば、進化や発展は、すべてが同じ方向に進んでいるのではないと言えるのかも知れない。例えば、技術的な進化や発展の波に乗る事は、生活を豊かにする上で大変有意義であるだろう。だが、人間的な進化や発展、いわゆる人間的な成長は、それとは違った次元で進んで行くものではないだろうか?

短絡的に「昔は良かった」などと言うつもりは毛頭ない。だが、携帯電話がなく、連絡をとるのも四苦八苦する時代を描いた本作を観て、少し考えさせられるような気分になった。

要所となるキャストをミュージシャンで固めた本作。彼らは実に見事な仕事振りを見せてくれる。彼らのお蔭で1970年代の雰囲気が再現されているように思うし、また、本職の役者でないからこそ、却って重みと深みをもたらしているように感じる。愛らしいヒロインの臼田あさ美も良い。


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