自分勝手な映画批評
青春の蹉跌 青春の蹉跌
1974 日本 85分
監督/神代辰巳
出演/萩原健一 桃井かおり 壇ふみ
賢一郎(萩原健一)が大学の友人浩一(河原崎建三)のアパート訪ねると、見知らぬ女、今日子(赤座美代子)が居た。

えんやーとっと、えんやーとっと

原作は石川達三。簡単に言ってしまえば、若者の利己的な行いを描いた作品と言えるだろうが、見るべきは、結果として利己へと走らせた虚無感なのだと思う。

主人公の賢一郎は、以前は学生運動やアメリカンフットボールに打ち込み、今は司法試験に挑む大学生。だが、彼は満たされていない。それは、裏切られ不完全燃焼に終わった青春から生まれた絶望が根源なのかも知れない。何にせよ、実感も主体性もない毎日が通り過ぎて行き、賢一郎の腑抜けた魂は、出口の見えない闇の中をさまよい続ける。

若者を描く上で、漠然としたフラストレーションをテーマにする事は、ひとつの定石であろう。例えばローリング・ストーンズは、その心境を「サティスファクション」という曲を用いて吐き出した。

ただ、決定的に異なるのは「サティスファクション」が、満たされない日々に怒りを露にしているのに対し、本作では、脱力し虚しく流浪するのみである。賢一郎の行き場のない心のモヤモヤは、ミック・ジャガーのシャウトには程遠い、ショーケンの力ない歌声によって漏れ聞こえる。

難しい役どころである主人公・賢一郎を、萩原健一が素晴らしく演じる。爆発力のある筈の彼の抑えたアンニュイな演技は、心に鬱積した何かを感じさせる。

賢一郎の唯一のはけ口となる登美子を演じるのは桃井かおり。桃井かおりは若くても桃井かおりであり、ショーケンに負けない存在感を見せつける。アクの強い二人の絡み合いは、本作を生々しく彩り、虚しき心情を増々混迷させる。さらには壇ふみの清らかさが、明と暗のコントラストをつける。


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