自分勝手な映画批評
ライムライト ライムライト
1952 アメリカ 137分
監督/チャールズ・チャップリン
出演/チャールズ・チャップリン クレア・ブルーム シドニー・チャップリン
1914年のロンドンの午後遅く、酔ったカルヴェロ(チャールズ・チャップリン)が自室のあるアパートに戻ると、1階の一室から異臭が放てれているのを感じた。ドアを突き破り中に入ると、テリー(クレア・ブルーム)がガス自殺を図っていた。

笑わせるって悲しい事ね

落ちぶれた老コメディアンと新進気鋭の若きバレエダンサーの恋愛を描いた作品。

同じような役柄を演じる事をタイプキャストと呼ぶらしい。同じような役柄を何度も演じれば俳優は、そのイメージを携えて自身の存在を世間に深く浸透させる事が出来る。しかし同時に、イメージが強く固定されてしまう為、違ったタイプの役柄を演じる時に影響を及ぼす可能性もある。そんなマイナス面の理由から、タイプキャストを好ましく思わない俳優も多いような気がする。

イメージの固定、すなわち演じた役柄とイコールで結ばれる俳優の分かりやすい代表例は、渥美清だろう。渥美清と言えば寅さん、「男はつらいよ」の車寅次郎であるのは万人が持つ認識なのではないかと思う。

チャップリンもイメージが固定されている俳優だと言えるだろう。チャップリンと言えば山高帽にヨレヨレの正装とステッキ、そしてチョビ髭の道化というのが皆が共有するイメージ。但し本作には、そのスタイルでは登場しない。しかし本作は、そのイメージを上手く用いて作り上げた作品、言うなれば、チャップリンだからこそ成し得た作品だと言えるだろう。

チャップリン演じるカルヴェロは、以前は大人気を博していたのだが、今は落ちぶれたコメディアン。この役柄にチャップリンが、自分のキャリアに対する自虐や自嘲を臭わせているようで、さらには自身の主張や心情を、台詞を用いてカルヴェロに代弁させているようで何とも興味深い。

時代はトーキーに移り変わっても、頑にサイレントにこだわったチャップリン。だが、その信念も時代の力強い流れには逆らえなかった。それを表現したかったのか、本作では自らを時代遅れの骨董品として扱っている。それもあってか、同じ時代を駆け抜けたライバルであるバスター・キートンとの夢の共演は豪華で嬉しくはあるのだが、どこか哀愁も感じてしまう。

だが、チャップリンにも意地がある。そして彼が築いた栄光が決してまやかしではないのも動かざる事実である。サイレントで培われた至高の芸の数々。それは、いくら時代が変わっても、色褪せずに現役である事が本作で実感出来る。作中、世間に見放され、どさ回りをしているカルヴェロは言う「何が悪いのです。世界中が舞台です。ここは、ひのき舞台です。」。それこそがチャップリンが持ち続けたプライドなのだろう。

そして何より忘れてならないのは、本作が一級品のラブストーリーだという事だ。年老いたコメディアンと若きバレエダンサーという年の差カップルの恋愛模様だけでもドラマになるのだが、そこに、バレエダンサーが以前に想いを寄せていた若き作曲家が絡んできて、物語をより一層豊潤にする。

本作の根低にあるのは優しさである。しかも、その度合いは半端ではなく、自らを犠牲にしてまでも相手を思いやる献身の美学がベースとなっているのである。だからこそ、大変切なくはあるのだが、極限にまで美しいラブストーリーが成立するのだろう。この美学は、設定こそ違えど、チャップリンが以前に製作した街の灯でも確認する事が出来る。是非とも本作と合わせて観て頂きたいと思う。

本作には、もうひとつ欠かせない重要なピースがある。それはテーマ曲「テリーのテーマ」である。この第45回アカデミー賞作曲賞を受賞した優雅な旋律が、秀逸なストーリーを包み込む事により、さらなる高みへと導き、完全無欠なエンターテインメントを完成させたと言えるだろう。

実際のチャップリンの生涯は伝記映画であるチャーリーに描かれている。だが、自らの人生になぞらえたような本作にも、チャップリンの人生を感じとる事が出来る。そういった意味で本作は、チャップリンの集大成と言えるような作品なのではないかと思う。

不世出の喜劇王が、自らに捧げたかにも思えるペーソスたっぷりのロマンティックなラブストーリーは、紛う方ない不朽の傑作であると言えるだろう。


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