自分勝手な映画批評
殺しの烙印 殺しの烙印
1967 日本 91分
監督/鈴木清順
出演/宍戸錠 南原宏治 真理アンヌ 小川万里子
日本に戻ってきた花田(宍戸錠)と、その妻の真実(小川万里子)はタクシーに乗って空港を後にした。タクシーを運転するのは知った顔の春日(南廣)だった。

あなたは私の体を奪うまで私を殺さないわ

凄腕の殺し屋の悲哀を描いた作品。

本作の監督、鈴木清順の発言によると、当時、専属契約をしていた日活では、監督の方から企画を出すという事は一切なく、日活の方から一方的に脚本を渡され、それを撮るというのが監督の仕事だったそうだ(但し、現場で脚本の手直しを監督がする事は大いにあったとの事)。しかし、通例には反して、日活から清順に企画を出すようにとの指示があった。

そこで清順は具流八郎と称する仲間達と脚本を練り上げ、日活に提出する。それが本作である。違う視点を用いれば、清順が初めて自主的に撮りたいと思った映画が本作という事になる。

しかし、そんな異例な状況が大変な事態を巻き起こしてしまう。本作を観た日活の堀久作社長は「分からない映画を作ってもらっては困る」と言って激怒。1968年4月、堀社長は清順を一方的に解雇してしまう。また、川喜多和子が会長を務めるシネクラブ研究会が清順監督作品37本の連続上映を予定していたのだが、「分からない映画を作る清順の映画は良くない映画で日活の恥」だとし、清順監督作品の貸し出しを拒否、以降の貸し出しを一切禁じてしまった。

解雇に不満の清順は訴訟を起こす。そして、1971年12月に清順の実質的な勝訴で日活との和解が成立する。だが、清順が日活に戻る事はなかった。また、この騒動は清順と日活の間だけに留まらず、日本映画界、及び、日本映画界以外をも巻き込む騒動となり、清順を危険人物、あるいは厄介者とした他の映画会社も清順を敬遠するようになってしまい、結局、清順は本作から10年後、1977年になるまで映画監督が出来なかった。

そういった事から、本作は清順を語る上で欠かせない作品となっている。と同時に作品内容から、清順の代表作の1つに数えられる作品にもなっている。

昔馴染みの春日から手を貸して欲しいと頼まれた花田は春日と共に、ある組織の幹部を相模の密邸から長野の山奥まで護送するという仕事を引き受ける。花田は殺し屋ランキングのナンバー3。春日もランキングされていた殺し屋だったのだが、酒に手を出すな、女に現を抜かすなというプロの寂しさに耐えられず、信用を失い、仕事を失っていた。そこで春日は花田の手を借りて今回の仕事をやり遂げ、殺し屋家業に復帰しようとしていたのだ。護送用の車の中に男の死体があるという不穏な空気が漂う中、仕事を始める花田と春日。途中、幹部を乗せたまでは良かったが、緊張に耐えられなくなった春日は、持参していたポケットボトルのウイスキーを飲み始めた。翌日、花田達は護送を邪魔しようとする殺し屋ランキングナンバー4の高と高の仲間達の待ち伏せに会い、銃撃戦が始まる。仕事中に酔っぱらって寝ていた腑抜けの春日は、案の定、役に立たないのだが、我を取り戻して意を決し、高に立ち向かって行った。

私は個人的に本作を3つのシークエンスで分けたい。ギャビン・ライアルの名作ミステリー小説「深夜プラス1」を下敷きにした1つ目のシークエンスはアクションが主体であり、これは従来の日活アクション作品と大きくは違わないと思う。しかし、ストーリーが大きく転調する2つ目のシークエンスは清順色が濃くなっている。

2つ目のシークエンスは展開が速い。それに伴い、カットもシーンも多いのだが、カットやシーンは、しっかりと連結されておらず、それ故にカットの間、シーンの間に時間や空間を意識してしまう。また、カット、シーンが短いので、テンポ良く、リズミカルに展開している。加えて、生活感が描写から排除されているので、アーティスティック、スタイリッシュな印象を与えている。

その2つ目のシークエンスで否が応でも心を乱されるか、心を奪われてしまうのが、真理アンヌと小川万里子だ。この2人は色々と対照的だ。

真理が演じるのはミステリアスな女性、美沙子。その美沙子を真理はエキゾチックな美貌だけを武器にしていると言って良い程、ほとんど表情を変えずに演じている。なので、実際には違うのだろうが美沙子は、まるで真理の為に用意された役かのように感じてしまう。しかも、真理の存在感は強烈だ。カリスマ性も凄い。本作に漂う淫靡で艶めかしいムードは、ひとえに真理から発せられていると言っても決して過言ではなく、真理はヒロイン以上の存在だと言える。

一方、小川が演じる真実は二面性はあるものの、ミステリアスだとは言えず、カリスマ性は皆無。そして、真実は小川の為に用意された役ではない。と言うのも、実は真実は本来ならば太地喜和子が演じる予定だったそうだ。しかし、土壇場で太地が本作と同時上映された「花を喰う蟲」に出演する事になり、急遽、小川がキャスティングされたらしい。

太地が演じる真実も観たかった気がする。しかし、小川でも大正解だったと思う。無表情な真理に対し、小川は様々な表情を駆使して真実を演じていて、真理とは違う角度から作品を盛り立てている。しかも、おそらく出演シーンの半分以上が裸なので、まさに体当たりの熱演だと言える。

宍戸錠と南原宏治との間で繰り広げられる3つ目のシークエンスは、2つ目のシークエンスの延長線上にあると言って良い。但し、すんなり引き継がれた訳ではなく、印象は一変している。スタイリッシュな印象は消えた。アーティスティックな印象はあるものの、それ以上に異様さが際立つ。

3つ目のシークエンスは、とにかく不可思議だ。発想が奇抜で、世界観が常識を大きく逸脱していて、過度にシュール。それを観た者は考えさせられるというよりも、感受性を試されているかのような気になるだろう。その挑発に受けて立たつのか立たないのかで、本作の評価は大きく分かれるのではないだろうか。

殺し屋の世界が異常なのは当然だが、あまりにも登場人物達が異常過ぎて、宍戸が演じる主人公の花田が正常に思えてしまう。しかし、度を越えた周囲の異常さは、正常な花田に影響を及ぼして行く。それは、まるで足首を急に掴まれ、もがきながら底なし沼に引きずり込まれて行くかのように映るのだが、そんな花田の変化に宍戸の演技は対応力を示している。

当時の日活には、宍戸以上のスターはいた。だが、当時の日活では、本作の主演が務まるスターは宍戸以外にいなかったのではないだろうか。宍戸の日活時代の主演作品は時代を超えて高い人気があるが、それは単なるノスタルジーではない筈。時を経ても色褪せない俳優としての魅力が宍戸に備わっているからなのだと思う。

本作の脚本は7人とも8人とも言われる具流八郎のメンバーそれぞれがアイデアを出し、メンバー以外からもアイデアをもらって作成したらしいが、実際に脚本をまとめたのは、大和屋竺、曾根義忠(中生)、田中陽造の3人だったそうだ。その中の大和屋は殺し屋ランキング、ナンバー4の高として本作に出演しており、あろう事か主題歌まで歌っている。

その大和屋は、アニメのルパン三世に長期に渡って深く携わっていた人物としても有名。大和屋は1971年にテレビ放映を開始したアニメ・ルパン三世の立ち上げメンバーの1人であり、アニメ・ルパン三世の脚本家に最初に決まったのが大和屋との事だ。

大和屋がアニメ・ルパン三世の脚本家に採用されたのは、当然、それまでの大和屋のキャリアが評価されての事であり、そのキャリアの中に本作も含まれる訳だから、本作はアニメ・ルパン三世のルーツの1つに数えられる作品だと言える。実際、本作はアニメ・ルパン三世の最初期にあったアンニュイでアダルトなムードに類似しているので、ルパンファンにも必見の作品だと言える。

ちなみに、私が言うところの1つ目のシークエンスの下敷きとなった小説「深夜プラス1」に登場するハーヴェイ・ロヴェル(またはハーヴィー・ラヴェル)はルパン三世の相棒、次元大介のモデルだと噂されるキャラクター。また、「深夜プラス1」の映画化の権利は、スティーブ・マックイーンが取得していたとの事。


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