自分勝手な映画批評
狂った果実 狂った果実
1957 日本 87分
監督/中平康
出演/石原裕次郎 津川雅彦 北原三枝 岡田眞澄
兄の夏久(石原裕次郎)と一緒に海に出掛けた春次(津川雅彦)は逗子の駅で美しい女性(北原三枝)を見かけ心を奪われる。

湘南の海、満たされない青春、若き裕次郎

石原裕次郎は1987年7月17日に死去した。亡くなった日は雨が降っていた。石原裕次郎は相当な雨男だったらしい。

私の裕次郎のイメージは「太陽にほえろ」のボスだった。正直、顔に肉のついた彼の姿に魅力は感じなかった。しかし奇しくも彼の死によって私は彼の魅力を実感するのだった。

定かでないのだが、確か彼が亡くなった日から後、一週間位、テレビ各局が彼の主に若い頃の映画をこぞって放映したと記憶している。その度合いは凄まじく、ゴールデンタイムのレギュラー番組を取り止めて映画を放映していた。各局合わせて日に何本も、更には裕次郎映画の裏番組が裕次郎映画だったこともあった気がする。そこにはボスのイメージとは違う裕次郎がいた。おそらく若い頃の彼の代表作はその期間にほとんど観たのではないかというくらい夢中になって観て魅了されてしまった。

若き裕次郎のイメージは良家のやんちゃ者といった感じだろうか。品性と不良性を兼ね備えた魅力。比較対象として相応しいかわからないのだが、同世代のカリスマ、ジェームス・ディーンとの比較すると、ディーンが自身の内面に向かったベクトルで演技しているのに対し、裕次郎はあくまでも外に向かって発している印象がある。スポーツマンのように爽やかであり、瑞々しく、何より華があった。それは太陽のようにすべてを照らす絶対的な存在感であった。

それで本作なのだが、原作・脚本は兄の石原慎太郎。本作は後のヌーベルバーグに影響を与えたと言われている。その真偽は私にはわからないのだが、確かに魅力的な作品だ。モラルに反する若者の行動。突発的あるいは本能的ではあるが、蓄積された日頃の鬱憤のせいであるとも言えよう。ただし、その鬱憤は育ちや家庭環境といった個人的な事由からではなく、社会的もしくは世代的な事由ではないかと感じる。そこには戦争、そして戦後というのが大きく関係しているのではないかと私は思う。「もはや戦後ではない」という言葉があったが、終戦による既存概念の崩壊、そこに生じる明日への希望とまだ定まらない社会通念や個人の価値観への戸惑い。そこから生まれる歪みが若者の行動に影響しているのではないかと私は思う。

本作には日本文化と舶来文化の混在が描かれている。その和洋折衷ともいえる描写には私はセンスを感じるのだが、一方、それは現代人からの視点であって、その混在は戦後の混乱や模索の現れとも言えるのだと思う。

本作の裕次郎は後の作品に比べると多少異質なのかもしれない。しかし彼らしさは十分に感じられる。後に妻になる北原三枝も素晴らしい。彼女でなければ本作は違うイメージになったであろう。彼女の凛として品を感じる振る舞いは演じる役柄以上に奥行きを感じる。若き日の津川雅彦、岡田眞澄も一見の価値あり。

本文冒頭のの亡くなった日の話をもう少しだけ。当日の夕刻、雨の中、何気なく空を見上げると黒い雲の間に綺麗な虹が見えた。円で例えるなら8分の1程の円だろうか、短く、わずかに弧を描いているような虹だった。空一面、雨雲で覆われた中での小さな虹の姿は、とても不思議で印象に残っていた。後日、気付いたのだが、私が虹を見たのは彼が亡くなった時刻ぐらいだった。もちろん関連性を調べることは出来ない。しかし、もうすっかり魅了されてしまった私には、スターというのはこういうものなのかと、裕次郎の偉大さとともに奇跡のような光景が心に強く残っている。


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