自分勝手な映画批評
ベニスに死す ベニスに死す
1971 イギリス/フランス 131分
監督/ルキノ・ヴィスコンティ
出演/ダーク・ボガード ビョルン・アンドレセン
蒸気船を利用してベニスに到着したアッシェンバッハ(ダーク・ボガード)。着いて早々、アッシェンバッハは化粧をした見知らぬ年老いた男性に話し掛けられる。

気がついた時は、すでに終わってしまっている

原作はトーマス・マンの小説。老作曲家がイタリアのベニスに滞在した日々を描いた作品。

ベニスというのは、ちょっと厄介な場所だと思う。ベニスとは英語での名称。イタリア語ではヴェネツィア。しかも、ベニスをヴェニス、ヴェネツィアをベネチア、ヴェネチアと書する場合もある。

つまり地名が幾つか存在する場所なのである。ベニスをヴェニス、ヴェネツィアをベネチア、ヴェネチアとするのは見当がつくだろう。だが、ベニスとヴェネツィアが同じ場所だと思わない人も中にはいるのではないかと思う。

近年は、統一している訳ではないのだろうが、ヴェネツィア(ベネチア、ヴェネチアも含む)表記が広く浸透しているように感じる。混乱を避ける意味では良い傾向だろう。ただ、そうなると、一層ベニスが何処だか分からなくなるような気がしないでもない。





作曲家のアッシェンバッハは静養の為にベニスを訪れた。もちろん静養するには訳がある。アッシェンバッハは心身共に困憊しているのだった。アッシェンバッハは滞在しているホテルのラウンジで美しい少年を見かける。それ以来、少年の事がアッシェンバッハの胸を離れない。





非常に高い美意識を感じさせる作品だ。それも何かひとつに限った訳ではない。形状や形式、資質が異なる様々な美が高次元で集結した作品である。

地位も名誉もある男が美少年に心を支配される背徳的なエロチシズム。このストーリーのあらましだけでも実に刺激的であり、インパクトは絶大である。但し、それだけが本作の誉れではない。本作が特別凄いのは、この有り様を台詞を極力排除し、会話を直接的に用いずに展開させている事である。

台詞や会話が存在しない訳ではない。しかし、それらは言ってみれば外堀。本丸となる男と美少年の間には会話は存在しない。にもかかわらず、匂い立つような生々しさを、しかも瞬間ではなく、終始継続して立ち込ませている。この事実には、まったくもって驚嘆させられる。

ポイントとなるのはビョルン・アンドレセンが演じる美少年タージオだ。長髪で中性的なタージオは、常に穏やかではない輝きを放ち続ける。この存在感は強烈であり、野暮な言葉など無用の美しさですべてを圧倒する。タージオをアンドレセンが演じたからこそ、この奇跡のような様式美が成立したと言えるだろう。

衝撃的なインモラルな世界に心を奪われがちになる本作。だが、ストーリーに確かなバックグラウンドがあるので陳腐な官能作品にはなっていない。バックグラウンドとは主人公の男アッシェンバッハが芸術家である事。つまり、創作に必要な既存の概念からの脱却という観念がストーリーの裏側に存在しているのである。

抑えなければならない衝動と解放すべき精神は、コインの裏表のように同体に共存している。従ってアッシェンバッハにとってタージオは単なる色欲のターゲットではない。芸術家として、ようやく辿り着いた観念の象徴、希望の光でもあるのだ。このように二つの意味を併せ持つ事で陳腐な騒がしさを打ち消し、逆に哲学的で高貴な様相を持ち込み、ひいては美しさを強調している。

バックグラウンドを描く為に回想シーンが随所に盛り込まれている。そこではメインのストーリーとは打って変わって言葉が満ち溢れている。これは本作の根底にあるコントラストの精神の明確な表れだと思うし、同時に、情緒を重視したメインのストーリーを補う術として、作品のバランスを美しく保つ効果も担っていると言えるだろう。

そして忘れてはならないのが音楽である。幾多の弦楽器が奏でるの荘厳な大海原に優しいハープの音色が乗せられたグスタフ・マーラーの交響曲第5番第4楽章アダージェットが作品を盛り上げる。すでにかなりのところまで到達している本作なのだが、そこに音楽が加わり至高の果てまで上り詰める。

本作には原作からの変更、脚色が加わっている。それは実に意味深いものであり、それを知っていれば更に本作の深みが増す事だろう。但し、それを知らなくても十分過ぎる程に堪能出来る作品であるだろう。

映画は言うまでもなく多種多様である。なので、その中で一番を決めるのは困難、というよりも一番を決めるのは土台無理な話であるだろう。ただ、それでも本作は、幾つかある映画の頂点のひとつに惨然と君臨する傑作であると私は確信する。


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