自分勝手な映画批評
阪急電車 片道15分の奇跡 阪急電車 片道15分の奇跡
2011 日本 120分
監督/三宅喜重
出演/中谷美紀 戸田恵梨香 宮本信子 南果歩 谷村美月 勝地涼
恋人の健介(鈴木亮平)と会社の後輩の比奈子(安めぐみ)と対面して座っている翔子(中谷美紀)。そこで翔子は、健介から別れて欲しいと切り出された。その理由は、比奈子が健介の子供を妊娠しているからだった。

雑草って草は、ないねんで

原作は有川浩の小説。兵庫県を走る阪急電鉄の今津線に乗り合わせた人たちの人間模様を、ショートストーリーを重ね合わせて描いた作品。

世の中には鉄道オタク(鉄オタ)と称される鉄道ファン、鉄道マニアがいる。私は特別、鉄道好きではないので外部からの視点になるのだが、鉄オタとは他の対象物のファン、マニアとは少し違った性質を持っているようで面白く感じるところがある。

というのも、鉄オタとは総称であり、その実は好みによって細分化されているからである。例えば鉄道に乗る事を目的とする鉄オタを乗り鉄、鉄道の写真を撮る事を目的とする鉄オタを撮り鉄と言うらしい。他にも好みの違いで多くのカテゴリーが存在するようである。

ファンやマニアを有する物事が数多く存在するのは言うまでもなく、それに対して魅了されるポイントも人それぞれではあるだろうと理解するのは容易い。しかし、ここまで対象を多角度から捉え、嗜好が明確に分類・分割されているのは珍しいのではないかと思う。それだけ鉄道には多種多様に人々を惹き付ける要素が備わっているという事なのだろう。

本作は、あくまでも鉄オタではない私の個人的な見解だが、鉄道を舞台にしつつも鉄オタ的な作品ではないように感じる。だが、鉄オタ的に本作を愛でれるのならば、鉄オタの心の広さと懐の深さを思い知らされる感じである。もちろん、鉄オタでなくても楽しめる作品である。

ちなみに余談だが、中谷美紀は映画「電車男」でヒロイン・エルメスを演じている。また、森田涼花はテレビの鉄道バラエティー番組「拝啓!!鉄道人」に、芸能人のマネージャーであるにもかかわらず鉄オタとして芸能人並みの知名度を誇る南田裕介と一緒に出演している。





OLの翔子は3年間交際していて結婚の準備も進めていた恋人の健介を、会社の後輩の比奈子に奪われてしまった。それは比奈子が健介の子供を妊娠した為。健介と比奈子は結婚すると言う。晴天の霹靂のような事態に怒りが収まらない翔子だが、結婚式に自分を呼ぶ事を条件に二人の結婚を承諾するのだった。結婚式当日、翔子は新婦と見間違えんばかりの純白のドレスで出席する。それが翔子の、せめてもの復讐のかたち。しかし、比奈子からクレームが入り、上に羽織物を羽織るように強要されてしまう。そこで翔子は自らの意志でその場を途中で後にするのだった。式場からの帰り、純白のドレスのままで電車に乗る翔子。同じ電車に孫と一緒に乗り合わせていた時江は、その身なりからある程度の事を察し、見ず知らずの翔子に話し掛けるのだった。





電車内は、実は不思議な空間ではないかと思う。というのは、自分とは縁も所縁もない人、素性も名前も知らない、言葉さえも交わした事のない人の存在を実感出来る場所だからである。そういった見知らぬ人と出会すのは珍しくはない。むしろ日常だ。しかし、見知らぬ人の存在を実感出来る場面は、ごく稀であるだろう。

電車以外でも見知らぬ人、つまり不特定多数の人が集う場所は沢山ある。ただ、それらの多くが目的に意識が集中している。例えば映画館。映画館も不特定多数の人が集まる場所だ。但し、目的は映画を観る事。なので、余程の事がなければ周囲の状況は気にならないだろう。

しかし電車は違う。それこそ乗り鉄のように乗る事自体が目的ならば別だが、目的が移動でしかないのならば、目的は自動的に果たしてくれる。従って、電車内にはこれといった目的は存在しないのだ。であるならば、目的を持たない電車内での意識は浮遊する。読書でもして有意義に過ごせれば良いのだが、特にする事がなければ冴えない時間を浪費するだけになってしまう。

ただ、救いなのは、真っ暗な部屋に閉じ込められている訳ではない事だ。見渡せば、暇を潰せるアイテムは転がっている。つまり、周囲の状況に意識が向かう状態に自然となっているのだ。意識は車窓に広がる風景に向かう事もあるだろう。見ず知らずの同乗者に向く事もあるだろう。

多くの同乗者を目の当たりにして我に返り「地球上には、こんなにも多くの自分が知らない人が存在するんだ」なんて改めて驚愕するのかも知れない。もっとも、そんなのは随分と大袈裟な思考回路だ。だが、聞き耳を立てていなくても聞き漏れてくる他人の会話から、ぼんやりとだが誰かの日常を感じ取った経験がある人はいるだろう。それこそが、見知らぬ人の存在の実感に他ならないと思う。

不特定多数の人が集まる場所は群像劇を描くには格好の舞台だ。しかもその場所が、群像劇に必須の雑多雑種の有り様を無理強いではなく自然と共感が出来る、更には生活に密着していて身近な電車内であるならば、一層の強みとなる。本作最大のポイントは群像劇の絆を電車内とした根本的なアイデアだと言えるだろう。

舞台となる阪急電鉄の車両の座席数は、およそ50。という事は、全席埋まっていれば50人の、立っている人も合わせればもっと多くの人の人生が電車内には詰め込まれている事になる。本作は、電車内の出来事というよりも、乗り合わせた人の背景、つまり、その人の人生のドラマに焦点が当てられている。

当たり前だが、現実の世の中には脇役もエキストラも存在しない。自分の人生において見ず知らずの人は脇役・エキストラなのかも知れないが、相手側の立場になれば自分が脇役・エキストラであり、その人が主役なのだ。そんな当たり前な事が、電車内という奇妙なコミュニティーを介して猛烈に迫ってくる。

但し、関係性のない赤の他人の集まりだという大前提を本作は忘れていない。だから、徒党を組んで物語は進んでは行かないし、また、登場人物が非常に多いので個人の深いところまでは掘り下げられてはいない。だが、この並べた小皿をつつくようなつまみ食い感が、却って粋な作風を築いていると言えるだろう。

観ている人にとっては、あたかも自分も乗車しているような感覚になる作品だと言えるのかも知れない。何気なく聞こえてくる会話から想像する見ず知らずの人たちの生活を、もっと踏み込んで覗き見するような感覚の作品。それは受け止めようによっては悪趣味極まりないのだが、覗き見したそれぞれのショートストーリーに心がほっこりする事は請け合いである。

会話の多くが関西弁である事も大きなポイントである。何故、数多の電鉄会社、路線がある中で阪急電車の今津線が舞台になったのか私には分からないのだが、物語を進める上では東京弁、標準語よりも方言であった方が適しているのは間違いないだろう。


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